2 鯰絵の顛末は
来客はなぜか一日に集中するものだ。
覚の背中を見送り、どこかぼんやりと物思いに耽りつつ夕餉の下ごしらえを続けていた那子の耳に、訪いの声が届いた。
「砂川先生、いらっしゃいますか。東東日報出版部の橋爪です」
ばたばたと慌ただしい気配に、那子は我に返る。気を引き締めて前掛けで手を拭い、小走りに客人を出迎えた。
「橋爪さん。わざわざこんな山奥まで、いつもすみません」
玄関口で会釈をすれば、橋爪は帽子を取って挨拶を返す。
「ああ、奥様、こんにちは。お元気そうで。今日は先生、いらっしゃいます? この前の鯰絵の件でお話がありまして」
「鯰……」
東東日報からの依頼で描いた、例の地震鎮めの絵のことだ。
完成品は、紙に穴が空くのではないかというほどじっくりと観察したので、目に焼きついている。瞼を閉じなくても、鮮明に脳裏に蘇るその絵を思い浮かべ、那子は全身から血の気が引くのを感じた。
(やっぱり、あれはまずかったのかしら……)
「ああ、橋爪さん」
那子の不安など吹き消すほど平静な声が、家の奥からやってくる。ぎし、と廊下の床が鳴り、見慣れた濃紺の着流し姿が縁側に現れた。
「ややっ、先生!」
橋爪の目が鋭く色を変える。相当気が急いているのか、庭を横断し、露景が立つ縁側まで駆け寄った。
(ああ、どうしよう。怒っている……)
肝を冷やす那子の全身から嫌な汗が噴き出した。しかしそれは杞憂であった。
「先生の鯰絵、大好評でしたよ。まあ、鯰、というか山の神様が描かれている辺りが一番目を引くんですけどね」
露景は少しも意外そうな顔をせず、当然のように頷いた。
「それはよかった。急いで完成させた甲斐がありました」
「いやあ、本当に感謝しかありません。おかげさまで、うちの『月刊 まゆつば』十一月号の売れ行きは、過去一、二を争っています。ほら、この山って、帝都の人たちがよく行楽にくるじゃないですか。そんな身近な山で頻発地震なんて、縁起でもないですからね」
興奮気味に饒舌を振るう橋爪に、那子は知らずのうちに詰めていた息を吐く。
どうやら東東日報も読者も、あの絵を好意的に受け止めてくれたようだ。
「ねえおっとさん、まゆつばってなあに」
人型をとったたぬ子が、露景の腿に纏わりついて、純粋な疑問を口にする。露景は、たぬ子の黒髪をくしゃりと撫でて、不親切過ぎる返答をした。
「眉に唾をつけて見るということだ」
「ううん?」
「とにかく」
ごほん、と咳払いをして、橋爪は鞄の蓋を開く。紙類を中心に様々詰め込まれた中身をかき回すようにして、一冊の雑誌を取り出した。表紙を飾るのは、何やら怨霊のようにも見える美人画だが、すぐに頁が開かれ見えなくなった。
「ほら、こちらに、読者からの感想が」
橋爪が、縁側の上で屈みもせず来客と会話をする露景に腕を伸ばし、紙面を見せる。露景は「うん」と頷いてから、一瞬だけ口元をもごもごとさせた。今にも笑い出しそうである。
そういえば彼は、何か突飛なことが起こるといつも、口元を蠢かす。これはもしや、にやけそうになるのを堪えているのでは、と思い至り、那子の方も頬が緩む。
「あれ以降地震もないですし、さすがは先生です。まあ、最初は何か独特な絵だなと思ったもんですが、ご利益は確かでしたね」
「ねえ、たぬにも見せて」
「橋爪さん、どうぞお上がりください」
「いやはや、では縁側からすみません。お邪魔します」
慌ただしく橋爪を客間に通し、茶の用意をして戻る。見ると、露景の膝の上に座ったたぬ子が、かじりつくようにしながら、雑誌に載った絵を眺めている。興奮して露わになってしまったらしい、ふさふさの尻尾が、時折揺れている。
「お役に立ててよかったです」
どうぞ、と茶托に載せた茶を差し出し言えば、橋爪は礼儀正しい笑みを浮かべて受け取って、雑誌の絵にどこか誇らしげな目を向けた。
その視線を追い、那子も話題の鯰絵をじっくりと鑑賞する。
絵は、橋爪の表現通り、独特な魅力を放っている。印刷の関係で彩色はされていないのだが、墨の濃淡が巧みなため、見る者の脳内に色が浮かぶような一作だ。
画面は大きく上下に分かれている。上部には瑞雲のように仰々しい雲、下部には地下を表す暗闇。そしてその真ん中には、鯰……にしては少し細い輪郭の、長い髭を二本生やした生き物が、下半身を貝の中に引っ込ませつつも身体を左右に伸ばしている。
背景中央にそびえるのは、巨大な山。その稜線が淡く発光しているということが、白黒の画面上でもわかるのだから不思議なものだ。
「墨絵でこの光の表し方。神業だってうちの社でも話題なんですよ」
「ああ、これは墨に胡粉を重ねて……」
専門的な話などわからない那子は、二人の会話に軽く耳を傾けつつ、この絵にまつわる小さな秘密を思った。
実はこの絵、露景の体調不良と一連の騒動のため危うく納期に間に合わないところだったのだ。
そう。あれは、龍が法螺貝を連れ帰った日の晩のこと。穴守の任で生気を絞り尽くしたらしい露景は突然、高熱に倒れてしまったのだ。
それでも、氷嚢を額に乗せながら寝ずに構図を練ろうとする露景を見かね、那子は素人ながら、隣に並んで共に頭を悩ませた。不慣れなもので、寝ずの作業となってしまった上に、満足のいく仕上がりにはならない。
朝日が昇り、寝不足のためぼんやりとした頭でたぬ子を起こす。寝起きのたぬ子は、元気いっぱいである。図案を見たたぬ子は、止める間もなく、那子の描いた不器用な下絵に独特な鯰を描き入れた。
無邪気に感想を求められ、「可愛らしい鯰ね」と答えれば、たぬ子はきょとんとしながら「鯰? たぬは、でんでんの穴で見たおじさんを描いたんだよ」と言ったのだった。
目を白黒させる那子だが、露景は事の次第を把握したようで「妖狸の目には、人型の我が父が龍の姿に見えたのかもしれない。よし、採用だ」と神妙に頷いた。
鯰絵ではなくて龍絵でいいのだろうか。軽々しく採用など、露景はいよいよ、疲労で判断力が欠落してしまったのでは。不安を覚えつつも、納期は刻々と迫る。背に腹は代えられない。
さらに、ねずねと金助の依頼をきっかけに絵に目覚めたたぬ子が「たぬも描くの!」とせがむので、たぬ子と那子も、僭越ながら、清書画に筆を入れることになってしまった。
日本画の有名な一門では、絵の顔となる部分……今回でいえば瑞雲や龍の辺りなどは師匠が手がけても、辺りを彩る背景や小さく登場する人物画は、師の指示の下、門弟が描くことが多いらしい。
しかしそれは、長年絵画を学んだ絵師の卵が筆を握るという話。岩絵具の練り方も知らない那子と、まだ幼いたぬ子が出る幕ではなかったのだが。
「なーんかいい味出ていたんですよね。鯰もなぜか、渦巻き貝の中に半分隠れていて神秘的でしたし。あれってやっぱり、法螺貝に影響を受けてますか? ほら、最初の打ち合わせの時に、先生が『地震の原因は法螺貝だ』って。……ああ、それと麓の町で妙な噂を聞いたんですよ。しばらく前に、山が光ったって。それがまさに、先生の絵そのものだって」
「この山は神に守られている。だから私は、地震を起こす異母……鯰と、それを抑えた山神を描いたのだ」
「へえ、この辺りにはそういう信仰がね」
「ですから、この山には人の手を入れてはならない。山神の気分を害せば、小さな地震どころでは済まないでしょう。まゆつばの記事の参考にでもしてください」
「ふむふむ、いや、興味深い」
橋爪は手のひらに収まる程度の大きさをした小冊子を取り出して、何やら記録を取り始めた。ひとしきり文字を記し終えると、「やや、失礼いたしました」と咳払いをする。
「まあとにかく、うちとしては今後も先生に絵をご依頼をしたい。次は、疫病退散の妖怪画をお願いできませんかね。ほら、冬になるといつも流行病が広がるじゃないですか」
「いや、私はどちらかというと、人物画が得意なのだが」
「最近は、人物画はあんまり売れなくてね。だって、写実的な絵を描くくらいなら、写真の方が正確だし手軽じゃないですか」
「しかし、写真に写らないひともいるだろう」
「はあ?」
「まあ、仕事が増えるのはありがたいことだ。詳細を詰めましょう」
「さすがは先生! いやあ、ご家庭を持たれてから、いっそう積極的に依頼を受けてくださるようになって……奥さん、幸せ者ですなあ」
那子は曖昧に微笑んだ。
確かに最近、露景は仕事に精力的だ。家族のために金銭を稼ごうという動機なのか、そうでないのか、那子には判然としない。しかし。
少し前までは、昼夜問わず部屋に閉じこもり、気の赴くままに筆を握り続けていた露景。
それが今や、基本は夜に眠り、三食食べ、日中には那子やたぬ子と会話もする。それどころか、時々訪れる近所の妖怪たちとも付き合っているらしい。その変化を見れば、少しくらい都合のいい期待をしてもいいのではないかと思えてくる。
「それでは、私と娘は失礼いたします。たぬ子さん、お父さんはお仕事ですからね、あちらへ行きましょう」
たぬ子を促し、廊下へ出て障子戸を閉める。
縁側には、肌をじわりと温める低い日差しが差し込んでいる。古びた、しかし日々丁寧に拭き清められた縁板が陽光を弾き、晩秋の色を帯びている。
ひゅう、とひときわ涼しい風が吹いた。
冬の足音が近づいている。しかし冬には冬の美しさがある。
落葉に染まる季節が終わり、この庭が一面の白銀に埋め尽くされても、何も怖くない。那子はこれからも変わらずに、四季の移ろいを穏やかな気持ちで見守っていくのだろう。




