3 季節は巡れど、何も怖くはない
「麓の町の人たち、この山には今も神聖な存在が宿っているのだと信じてくれましたね」
その晩。那子はいつも通り露景の部屋で、寝具を整えていた。その間、露景は文机に向かい、那子が独り言のように漏らす言葉に耳を傾け、時々相槌を返すのがお決まりだ。
「これでしばらくは、人間の開発の手も及ばないだろう」
そう、あの癖の強い鯰絵には、この山が神に守られているのだと主張する意味もあったのだ。もちろん、山神は去ってしまい、山からは神気が消えたのだが、そもそも一般の人間が神を鮮明に見ることはない。ならば、勘違いさせておけば都合がいい。
「そうですね。覚たちみたいに、もう出て行ってしまった妖怪も多いですが」
何となしに言い、枕を整える那子の背後で、かたり、と筆を置く音がした。ほんの僅かな逡巡の後、いつもより若干低い声が発せられる。
「君は、あの男が移住して寂しいのか」
「そんなこと言っていませんよ」
思わず手を止めて、顔を上げる。露景が、肩越しにこちらを振り向いていた。
「この分だと、去った妖怪たちも帰ってくるかもしれないな」
「また賑やかになりますね」
「別にどちらでもいいが……神使にしても覚にしても、君は人外の者に好かれるようだから、気をつけなさい」
相変わらず淡々とした声音だが、少し拗ねたような響きがある。那子は掛け布団を撫でて整えると、膝を滑らせて文机の側に寄った。
真正面から露景の顔を見上げる。藍色の瞳は相変わらず、湖面のように静かだ。しかしその奥底に、小さな不安と、もしかすると嫉妬の片鱗のようなものが宿っているように見え、那子は瞬きを繰り返す。
(都合のいい幻覚かもしれないけれど)
それでも、露景の瞳に血の通った感情の欠片が見えたという事実に、胸の中が明るくなった心地がした。まるで、絵皿に張った水に筆先から絵具を落としたように、鮮やかな色がじわじわと広がっていく。
じっと見つめる那子に居心地悪さを覚えたのか、露景は再び筆に手を伸ばす。那子はそれを阻むように指を重ねた。
湖面の色をした双眸が、那子の方へとまた戻ってくる。互いの瞳の中に互いを映し合い、那子はふと気づいた。いつしか、彼のもたらす圧迫するような静けさを前にしても、気後れはほとんど湧かなくなっていた。
那子は触れ合う手に少し力を込めて、いたずらっぽく笑った。
「大丈夫。今はもう、誰も寄ってきませんよ。だって私は龍の眷属で……あなたの妻、ですから」
少しはだけた右袖から、赤黒い痣が覗いている。醜かったそれは、魂を導く幽玄の花へと姿を変えた。露景がくれた、不器用な絆の証である。
露景は筆から指を放し、そのままくるりと手のひらを上向けて那子の手を取った。筆肉刺のある硬くて大きな熱が、那子を包み込む。
しんと垂れ込めた静寂を、秋の虫と二人の息づかいだけが微かに揺らしている。
肌を撫でる空気はひんやりとしているはずなのに、締め切った障子戸の内に満ちる空気はどこか熱を帯びていて、じっとりと纏わりついてくる。不快ではない。だが、胃の奥がぎゅっと縮こまるような、それでいて、どこかふわふわとした緊張が漂っている。
「那子さん、私は君を」
風のない湖面に浮かべた紙の小舟を放つように、そっと押し出された言葉たちは、どんな岩絵具よりも煌めいている。いつにない距離感で見つめ合う二人を包み込み、夜はしんしんと更けていく。
妖怪画家と雇われ妻、そして今はきっと夢の中で駆け回っている無邪気な狸。生まれたての家族の季節はまた一つ、巡っていく。
<完>




