1 一緒にこないか
「おい、那子。元気か」
山神の息吹が感じられなくなり、龍が法螺貝を連れて去ったあの日から一週間ほどが経った、ある昼下がり。喉の奥で岩がごろつくような男の声が、台所の入り口からひょいと投げかけられた。
神出鬼没にはもう慣れたもの。那子は、葱を切る手を止め、前掛けで手を拭ってから振り返る。
「元気よ。覚、あなたは?」
「俺も変わりねえよ」
「ならよかった。今日は遊びにきてくれたの?」
「いいや、挨拶にな」
赤茶色の長毛猿が、笊や盥が並ぶ古びた棚に片腕を突き、口の端を皮肉にめくり上げている。
「俺たちさ、山を出ることにしたんだ」
「山を出る」
唐突な報告に、言葉が続かない。
覚は、笊の中から勝手に芋を取り、お手玉のようにぽいぽい投げた。真面目な話をするのが照れ臭いのだろうか。
「山神と交渉して、この山に縄張りをもらおうとしてたんだが、あの野郎、寿命が尽きた。縄張りのことはさておいても、山神がいないこの山は次第に、妖怪にとっては住みづらい場所になる。そのうち、神の消滅を察した人間たちの開発の手が、ここにも入ってくるかもしれないからな。俺らだけじゃなく、他の妖怪たちの中にも移住を検討する奴らが増えるだろうさ。……だからさ、那子」
覚の赤みを帯びた黒い瞳に真摯な色が浮かぶ。芋が乾いた音を響かせて、覚の片手に収まった。
「俺と一緒にこないか。多分、俺の寿命は残り六十年くらいだと思う。あんたよりは長生きするかもしれねえが、誤差の範囲だ。覚の一族なら、人間のあんたとほとんど同じように老いていける。俺の両親も兄弟も、みんなあんたの家族になれる。いつか生まれてくるかもしれない子どもだって、人と同じ早さで寿命を燃やしていくだろう。だから那子は、俺を選ぶべきだ。家族になろう。あんたが望んだものを全部、俺が与えてやれるから」
懇願すら帯びた、少し強ばった声。闇夜に燃える篝火のように澄んだ激しさを孕む瞳と、じっと見つめ合う。
(ずっと、家族が欲しかった)
ただ血がつながっているとか、同じ家に住んでいるとか、そういうものではなくて。心からの慈しみを持ち、時には諍い合い、それでも最後にはやはり「ここは世界で一番安全で、愛情に満ちた場所なのだ」と思えるような、そんな家族の団らんに、ずっとずっと憧れていた。
結納も花嫁行列もなく、ただ身一つ砂川露景の屋敷を訪れた時。那子の胸に広がったのは、縋るような思慕だった。夫がどんな人物であったとしても『家族』であるならば、ただそれだけで、尽くすに足る相手であったのだ。
けれど那子は次第に、露景の不器用な胸の内を知ることになる。一見、冬の湖面のように冷淡な瞳。けれどその奥に、彼自身ですら自覚できていない孤独があることに気づいてしまった。そして、彼の心に張った氷面が徐々にひび割れて、温かな情の片鱗が覗いたその瞬間。那子はもう、砂川露景という湖の底に引き込まれ、二度と逃れられなくなってしまったのだ。
家族が欲しい。団らんに憧れている。覚が言うように、家族の温かさを一方的に与えてもらうのは、きっと心地のいいことだろう。
それに、露景とたぬ子と共に過ごした期間は、まだ半年にも満たない。生き方を変えるのに、遅過ぎることはない。
しかし那子は気づいたのだ。寄り添える人ならば誰でもいいわけではない。
時に諍い失望して、与えられるものよりも与える量の方が多いのではないかしらと苛立って。それでもやはり、この人のことがどうしようもなく愛おしいのだと思えるような、理性ではどうにもならない感情に突き動かされる。そんな愛に、出会ってしまった。
他人は、那子のことを愚かだと言うかもしれない。しかし心は揺るがない。だから答えは決まっている。
「ごめ」
「ああ、はいはい。もうわかったよ」
覚は、まるで虫でも払うように、ひらひらと手を動かした。
「後悔しても知らないからな。ったく、あんな昼行灯みたいな半端者、どこがいいんだか」
人の心が読めてしまう覚。那子の脳内で渦巻いた感情はきっと、覚を傷つけたに違いない。
人は、言うべき事柄と口をつぐむべき本音を取捨選択するものだ。しかし覚は、感情の坩堝をひっくり返したかのように赤裸々な情念の塊を、日々間断なく受け入れ続けているのだろう。
その苦悩を想像すれば、胸の奥が針で刺されたかのように痛んだ。
「覚」
「おいおい、哀れみは不要さ。じゃあな、那子。おまえのそういうところ、結構本気で気に入ってたんだぜ」
軽く手を上げて、覚は颯爽と去って行く。それ以降、あの赤く燃える清らかな瞳と見えることはなかった。




