15 砂遊びだ
「ふへ」と変な声を出したのはたぬ子か、それとも覚か。
露景は、もう一度「砂遊びだ」と繰り返し、たぬ子を抱いたまま、新鮮な供え物の並ぶ祭壇の裏に踏み入った。
「おっとさん。たぬ、何すればいいの?」
「あそこを一緒に掘ろう」
畏怖の欠片もなく指差したのは、細い紐で連なる帆立貝の簾に覆われた穴の群れ。異母兄に繋がる空気穴である。露景たちが掘削する異音は、異母兄の元まで伝わって、必ずや怒りを買うはずだ。
一方で、大惨事にはならないだろう。なぜならば、露景は今、穴守の祈りを法螺貝に届けるのに最も相応しい場所にいる。全神経を集中させれば、苛立つ異母兄の呻き声程度、すぐに鎮めることができるはず。
「ちょ、あんたそんな……穴守だろ? 何で掘る」
「身内だからこそ、横暴も許されるだろう」
「んな無茶な」
「ほら、たぬ子」
ぶちり、と無造作に紐を切り、帆立貝の殻を拝借する。その内の一枚をたぬ子の小さな手に握らせて、彼女を地面に立たせた。
「ううん。全然掘れないよう。たぬ、つまんない」
「じゃあそこで座っていなさい」
「おっかさん、その奥にいるの?」
「いいや、この奥には、那子さんではなく」
露景は少し思案する。幼いたぬ子に何と言えば伝わるだろう。やがて浮かんだ言葉が我ながら的確だったので、露景は満足して一つ頷いた。
「でんでん虫みたいなものがいるのだ。大きいぞ」
「……でんでん!」
かたつむりではなく法螺貝だが、まあ似たようなものだろう。
かたつむり好きのたぬ子が目を輝かせる横で、露景は一人、帆立貝の殻を駆使して穴を拡げにかかる。異変はすぐに起こった。
地面が小さく振動し始める。穴の奥から、ひんやりとした風が波の満ち引きのような間隔を空けて吹き出して、露景の前髪を揺らした。
露景は、穴荒しの合間に法螺貝を鎮める祝詞を唱えた。一つ声を発する毎に、全身が徐々に重たくなる。まるで、声という糸を介して命がするすると引き抜かれていくかのようだ。
安眠を脅かされた法螺貝の怒りは、露景の祈りによって一時は鎮まるのだが、すぐに盛り返す。
「よし、たぬ子。そろそろ変身ごっこをしよう」
「へんしん!」
貝殻を使い、壁面に法螺貝の絵を描いた。大きさはちょうど、妖狸姿のたぬ子と同程度。
「これに化けられるか」
「うん……でもお」
どうしたことか歯切れが悪い。言ってみなさい、と目で促せば、たぬ子はそれがいかにも重大事であるかのように、唇を尖らせた。
「可愛くないもん」
「おっかさんのためだ」
「……おっかさん!」
効果はてきめん。たぬ子は健気に拳を握り、どろんと白煙を上げた。次の瞬間、露景の足元には、ちょうど狸ほどの大きさの法螺貝が転がっていた。
露景は法螺貝たぬ子を大事に抱き上げる。異母兄の唸りに意識を向けながら、ざらりとした貝の表面を優しく撫でる。
「では次に、あの音を真似して唸ってみてくれ」
「⁉︎」
「大丈夫。妖狸の変化ならば、発声器官も完全に同じのはずだ」
「う、うう、うごごごゴゴゴ……」
たぬ子の愛らしい声が次第に、おどろおどろしい地鳴りのような音へと変わっていく。
本物の法螺貝の立てる音と折り重なって、怒りの声は大きく地面を震わせる。
(まだか……父上)
「おいおい、まじかよ。狂ってやがる」
覚が悪態をつくが、いたって正気。しかし、側から見れば奇行じみているだろうというのはわからないでもない。
本来鎮めるべき法螺貝を、突飛な行動で刺激するのは、父龍を失望させるためである。露景はわざと無能を晒し怒りをかって、父龍を呼び出そうとしているのだ。
(早くこい……)
側頭に不快な汗が流れた刹那。突如、洞窟の外で生まれた閃光が、露景たちを包む闇を切り裂いた。続いて、全身の毛が逆立つような雷鳴がとどろき、雨粒が地面を叩き出す。
「おっとさん、怖いよう」
落雷に驚いたのか、半分変化が解けて四肢の生えた狸法螺貝が、腿に抱きついてきた。突然の嵐は、幼子にとっては恐ろしいものだろう。だが、ここで手を止めてしまっては全てが水の泡。本当ならば、すぐにたぬ子を抱きしめてやりたいが、そうもいかないのがもどかしい。
「もう少しだから、辛抱しなさい」
再開させた祝詞の合間に零れたのは、我ながら冷淡な声だった。
露景の腿に回されたたぬ子の腕が、しゅんと緩む。見下ろせば、法螺貝の要素を一切失ったたぬ子が、耳と尾の生えた幼子の姿でうなだれている。
「おっとさん、怒らないで。ううう……おっかさん、どこ」
「おいおい穴守。ガキにその言い方はねえだろ……ほら、こっちにこいよ、ちび狸。いいか、雷が鳴ったら臍をこうやって」
その時だ。
ひときわ大きな稲光と雷鳴が世界から色と音を奪い去る。思わず手を止め、眩んだ目を瞬かせる。耳鳴りに侵食された聴力が戻るのを待つ間に、濃密な水の匂いが鼻を突いた。
(きた)
「う……おいまじかよ。龍の乱入なんて、山神が怒るぞ……ったく、付き合ってらんねえ。俺は帰るぜ」
視界が眩んでからしばらく。やっと物の輪郭を映し始めた目を向けると、長毛の猿姿に戻った覚が四つ足でそそくさと洞穴を出て行くところであった。
覚が消えた洞穴の入り口にじっと目を向ける。いつの間にか覚と入れ替わるようにして立っていたのは、三十前後の容貌をした、すらりと背の高い男であった。
白い着物を纏う身体は適度に肉づき健康的だが、肌が異様に青白い。だが、体調を崩しているわけではない。これが生来の血色なのだ。その証拠に、湖面のように静かな瑠璃色の瞳は、強い生気を宿している。
青緑色の長髪が、吹き荒れ始めた風とは明らかに異なる力の作用でゆらりゆらりと揺れている。まるで、水に流れる水草のようだ。
「あなたは」
「わかめ……!」
たぬ子の呟きが、厳かな空気をぐにゃりと歪めた。時空を捻った小さな口を、露景は手のひらで軽く押さえる。そんな二人を鋭い目で捉え、男は唇を開いた。
「何をしている、愚か者め」
言葉の持つ鋭利さとは裏腹に、どこか中性的でまろやかな声。懐かしさすら覚える音色を耳にして露景の胸に浮かんだのはしかし、思慕はなく畏怖だった。石を呑んだかのように重苦しい腹に力を込めて、露景はその場に膝を突き頭を下げた。
「父上、ご無沙汰しております」




