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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第三話 この場所で生きるため、妖怪画家と雇われ妻そして狸は光を描く

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14 おっかさんを探しに行こう

「ねえおっとさん。おっかさんがいないよう」


 半狸姿のたぬ子が障子戸を薄く開き、露景(ろけい)の仕事部屋に身体をねじ込んできた。露景は紙に滑らせていた筆を止め、顔を上げる。


那子(なこ)さんが? 朝餉を作っているのではないのか」


 たぬ子は、今にも決壊しそうなほど潤んだ目で首を横に振る。


「ご飯のところにもお庭にもいないの」


 たぬ子は、筆を置いた露景の膝の上に飛び乗って、父の腹にぐりぐりと頭を押しつけた。溢れた涙が、着古した濃紺の着物に染みを作り、小さな頭の動きと共に引き伸ばされる。


 状況理解が追いつかない。呆然とたぬ子の頭を撫でつつ、露景は昨夜から今までの出来事を反芻した。


 昨晩は、たぬ子と共に眠った。突然倒れた露景に衝撃を受けたたぬ子が、くっついて離れなかったからだ。


 誰かの温もりを感じながら休むなど煩わしいだろうと想像していたのだが、小さな身体が呼吸に合わせて上下する規則的な波に攫われるように、気づけば深い眠りに落ちていた。


 やがて、小鳥のさえずりと同時に目覚めたたぬ子の身じろぎに起こされた。まだ日も昇り切らず、外には曙空が広がっていた。普段なら二度寝でもするところだが、どうしたことか、いつもよりも全身が軽く感じられ、露景は早朝から筆を握ったのだ。


 今、障子戸の隙間から差し込む日差しは、清々しいが力強い。起床から二、三時間。午前の早い時刻だろう。


 この時間、那子はいつも、台所で米を炊き野菜を切っている。


 普段なら、彼女が立てる軽やかな朝の物音に耳を傾けているうちに、ほんのりと味噌汁の香りが漂い始める。やがて、露景の胃の底が活発に空腹を主張し出した頃合いに「朝ご飯ですよ」と控えめな声が呼びにくる。


 彼女がこの家にやってきたばかりの頃は、食事など、やっと勢いづき始めた筆の動きを邪魔する煩わしい存在に過ぎなかった。せっかく用意してもらったのだから、と考え膳の前に座ってみても、絵のことが頭から離れず上の空になってしまう。食事の間に沈殿する重たい空気に、那子も気詰まりだったに違いない。


 ならば最初から手間をかけさせないようにするのが、互いにとって最善だろう。だから露景は那子に「食事はいらない」と再三告げたのだが。


「おっかさんのお味噌汁飲みたいよう」


 ぐううう、とたぬ子の腹が鳴り我に返る。それにつられて、露景の胃も空腹を訴え熱を持ち始めた。


 いつしか、那子とたぬ子と共に、三食規則正しく膳を突くのが日常となっていた。不器用な箸使いで美味そうに食事を口に運ぶたぬ子を見つめる那子の眼差しが温かく、気づけば吸い込まれるように目を奪われていたこともある。そんな二人の姿を見ていると、露景の胸にも穏やかな波が押し寄せて、名状し難い温かなもので心が満たされるのだ。


「おっかさん、どこ?」

「那子さんの居場所は」


 わからない、と言いかけて、ふと口を閉ざした。出世法螺の祭壇での出来事が、脳裏に蘇る。


 あの洞穴に那子がやってきた時、異母兄に繋がる穴から溢れてきた小さな風の塊。まるで、異母兄がほっと安堵の息を吐いたかのような、優しげな風だった。直後、神使は匂わせた。巫女がいれば、法螺貝の激情は抑え込まれ、大地の鳴動は収まると。そして。


 ――気が向けばいつでも我が元へ。


 あの時遮り切れなかった神使の言葉が、露景の頭を、がつんと殴りつけた。


(私が倒れなんぞしてしまったから、那子さんはもしかすると)


 悪い予感ほど的中するものだ。露景はいても立ってもいられなくなり、たぬ子の両脇を掴んで抱き上げると、そのまま縁側から庭に出た。沓脱石で草履を引っかけて向かうのは、先日の地震で少し斜めに傾いだままの古びた門だ。


「おっとさん、どこ行くの」


 驚きに涙も引っ込んだ様子のたぬ子に、露景は短く答えた。


「おっかさんを探しに行こう」


 那子は、山神のところにいるだろう。





 目的地へ向かい、下草を慌ただしく踏み分ける。落葉が始まったばかりの森の地面は、一歩足を進める毎にざくざくと控えめな秋の音を返す。


 初秋の午前は過ごしやすい。その分日差しは夏よりも低く、ちりちりと肌を焦がす。しかしそのいずれもが、露景の意識を素通りして呆気なく霧散した。


 那子を、山神の巫女にしてはいけない。無論、山の安寧のためを思うのならば、彼女の献身は望ましい展開なのかもしれない。だが、神や力ある妖怪に仕えることを強要された人間など、ただの生け贄と変わらないのだ。


 山神の巫女の年季は一般に三十年。仮に、五十三になった那子が生きていたとしても、人の寿命では、残された時間はほとんどない。長命な露景にとっては、齢五十を超えた人間の余命など、一呼吸の間に過ぎ去ってしまうと思えるほど、刹那のことでしかないのである。


 神を愛し、神に身を捧げることが本望ならば、巫女となるのは幸せなことだろう。しかし那子は違う。『家族』という言葉を何度も愛おしげに舌で転がしていた。巫女は神の妻とも呼ばれる存在だ。当然家族など持てやしない。神に仕えれば、もう二度と彼女が望むものは手に入らなくなってしまうだろう。


(だが、理由はそれだけか?)


 露景は自問する。


 全身が焼けただれるような焦燥を覚えるのは、彼女の望みを叶えてやりたいと思うから。だがそこに、自分本位な願望が含まれていないと言い切れるだろうか。


 那子には、たぬ子の母でいて欲しい。そして。


(私の隣にいて欲しいのだ)

「……だから、この山が法螺貝にひっくり返されてもいいってことか?」


 気づけば、穴守の祭壇がある洞穴の入り口にたどり着いていた。


 露景の心を読み、容赦なく斬りつけてきた不機嫌そうな声は、祭壇の辺りから発せられたらしい。内外の光度差で視界が潰れ、声の主は像を結ばない。目を細め、数回瞬きをしてやっと、薄暗い洞穴内にぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。


 男だ。露景の外見年齢よりも少しばかり年長と見える人間。妙なことに、山中にもかかわらず、羽織袴を纏っている。


 露景は警戒を隠そうともせず眉根を寄せた。


「誰だ」

(さとり)だよ」


 さらりと返す声には聞き覚えがある。一瞬虚を衝かれた心地がしたが、すぐに理解がおよび、露景は洞穴内に足を進めて覚の正面で立ち止まる。


「那子さんにつきまとっていた、あの覚か」

「たぬ、この人知ってる。嫌な妖怪。おっかさんを泥棒した!」

「おいおい。二人して、ひでえ言い方だな」


 愉快そうな調子ではあるものの、赤みを帯びた黒い瞳の奥には敵愾心が燻っている。


「でも残念だったな。今回は那子が俺を呼んだんだぜ」


 ひくり、と自分の頬が動いたのがわかる。人の心を読む妖怪は、露景の心を残酷なまでに逆撫でする。


「あんたが頼りにならねえから、那子はしかたなく身を差し出したんだ。俺はあいつの決断を尊重するぜ。それで、巫女の年季が明けたらつがいになる」

「三十年後にか」

「予定通り次の巫女がくれば残り七年だが、まあ望み薄だろうから、最長五十年。法螺貝が出てくるまでだよ。まあその時には俺も那子も同じ老いぼれさ。あんたはまだ壮年だろうけどな」


 反駁できず、露景はたぬ子を抱く腕に力を込める。


 父や夫の役目を、まともに果たすことができなかった。その役割において、どのように振る舞うのが正解なのか、見当もつかなかった。


 しかしだからこそ、存在自体も曖昧な「正解」を手探りで掬い取りながら、一歩一歩挽回していきたいと思っていた。だが露景は、またもや忘れていたのだ。人間の寿命の儚さを。


「長寿以外なーんも妖力を持たない法螺貝崩れが、偉そうに。一家の主としてどころか、穴守(あなもり)としての能力も中途半端なくせにさ。その点、那子は立派さ。妖怪の血を引かなくても巫女として山神を助けているよ。いっそ、あんたも自分の巫女を探したら? そうしたらちょっとはましな穴守になるかもしれねえ。あ、穴守自体が龍の巫女みたいなもんなんだっけ? でもあんたも龍の血を引いている。複雑なこったなぁ」

「……巫女?」


 絶望ばかりをぼんやりと眺めていた辛気臭い目の奥で、突然何かが弾けて光ったような錯覚がした。


 龍は、神にも近しい妖怪だ。それゆえ、龍の子である法螺貝を補佐する穴守は、巫女と同等の存在とも言える。


 戯れで発せられたと思しき覚の提案はもしかすると、決定打になるかもしれない。


「そうか。確かに。そもそも、腕に我が父の力を刻まれた那子さんは、龍の巫女にこそ相応しい。巫女が二神に仕えることなど許されない」

「え、おい、何を」

「たぬ子」


 露景は、胸に密着して抱きつくたぬ子を引き剥がして顔を覗き込む。今にもぐずり出しそうな不機嫌顔に向け、露景は真顔で言った。


「たぬ子、砂遊びだ。思う存分ほじりなさい」

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