13 巫女になれますか?③
胸の奥を寒風が吹き抜ける。心が凍りつくような痛みに小さな呻きが漏れる。しかし那子には、失望を覚える資格などないのだとも思う。
そもそも、覚が那子に接近した理由が純粋な好意だったとしても、彼の思いに応えることなどできない。それなのに、覚が那子に告げた求愛の言葉はまやかしであり、愚かにも利用されていたのだと知り傷つくなんて、あまりに自分勝手なことだ。
「だけど那子。今は違う」
那子の心を読み取ったのだろう、覚は唐突に言って神使に目を向ける。
「御一新後の人間社会を見ていると、予定通り次の山神の巫女が捧げられるか疑わしいけどよ、本来なら巫女の代替わりまで後七年。悪い予感が当たって代わりがこなかったとしたら、法螺貝が龍になって地面から出てくるまで……多分五十年ってところか。最悪、龍の飛翔を合図に巫女の年季明けってことでいいだろう」
「ふむ……まあ、いかに巫女の血筋とはいえ、あまりに老いた者では山神様のお役には立てないだろうからな。異論はない」
「じゃあ俺は、年季が明けるまで待つぜ。神使、縄張りの件と併せて頼む。那子が巫女の任から解放されたら、俺にくれ。別に大した要求じゃねえだろ」
「待って、覚。七年ならともかく、五十年後なんて、私、生きているかわからないし、それにもうしわしわの」
「別に気にしねえよ」
覚はあっけらかんと返してから、表情を引き締めた。いつになく真摯な声に、那子は言葉を失った。
「最初はただ利用しようと思ってたんだ。だが今は……本当にあんたが欲しい」
陽光の下では赤く透けて見える覚の瞳が、青白い月光に照らされて、一瞬だけ紫を帯びて見えた。その怜悧な色合いに、露景の瞳に宿る湖面の青が重なった。慌ててかき消そうとするのだが、覚には全てお見通しだろう。
「いいぜ、それでも。時間だけはたっぷりある。何たって、最長五十年。心変わりさせるには十分だ」
軽やかな口調からは、本気とも冗談とも測れない。だが、真っ直ぐに見つめてくる眼差しを受け止めて、那子はただ息を呑む。やがて、時が止まったかのような刹那を突き動かしたのは、神使のうんざりとした声だった。
「……いったい我は何を見せられているのか」
人間じみた仕草で顔をしかめる山犬の姿に、那子は我に返る。場違いな気の緩みはほんの束の間のこと。次の瞬間には、空気は琴の弦のようにぴんと張り詰める。
「まあいい。皆、出て参れ」
神使の合図を受けて、ざざ、と四方の藪が揺れた。いつから潜んでいたのか、木々の間から、白銀の山犬たちが双眸を光らせながら次々と現れる。その数、二十は下らない。
彼らの瞳は一様に、鋭利な金茶色に煌めいている。馴染みの神使の黄金色のそれとは色合いが異なっている。よく見れば体色も、新たに姿を見せた山犬たちの方がややくすんでいるように見えた。
「那子、こいつらも山神の神使だ。下っ端だがな」
「いちいち失礼な猿だ」
黄金色の瞳の神使は吐き捨ててから、円陣を作る仲間たちを見回した。
「皆、選定を。この娘を山神様の元へお連れするべきか否か」
神使たちが嗅覚を研ぎ澄ませる鼻息が広場に響く。
見えない手で全身を撫でられているような不快感。不意に那子は、既知感に襲われた。
空から降り注ぐ天体の光、手足に重たく纏わりつくような漆黒の闇、深閑とした森の香り。そして、にじり寄る巨大な山犬たち。神気、というのだろうか。彼らが引き連れた清冽過ぎるほどの気配が、那子の肌をぴりぴりと刺激する。
違和感を叫ぶのは、皮膚だけではない。側頭が鈍く痛んでいる。
那子は思わず指でこめかみを押さえ、眉間に皺を寄せる。頭痛を堪えながら細めた目の前に、ここではないどこかの森の幻影が浮かぶ。
同時に、悲痛な叫び声と身の毛もよだつような咆哮がどっと押し寄せる。それらは、ごうごうと流れる濁流のように、那子の五感を攫った。
――この子には何の罪もありません。
幻の世界に響いたのは、恐怖と絶望に震える女の嘆願だ。しかし口々に返す神使の声は氷の塊のように冷酷である。
――身ごもった巫女など。
――冒涜も甚だしい。
――流してしまえ。
――腹を裂け。
残虐な、と女は声を絞り出す。
――これが山神の意志なのですか。ならば、お役目をお返しします。慈愛なき神にお仕えすることはできません。
続いて、響くのは喘鳴。疾走する人の足が枝を踏み草を蹴散らす音。それを追う獣たちの弾んだ呼吸、そして。
――もう少し、もう少しだから、大丈夫よ……。
誰かを励ましながら、自分自身に言い聞かせるようでもある女の声。声の主が何者なのか、那子は記憶の奥底で知っている。那子の始まりの瞬間からいつも側にいて、絹布のような極上の愛情で那子を包み込んでくれた人。ほんの僅かな期間だけ、かけがえのない温もりをくれた人。
――ごめんね、ごめんね。こんな目に遭わせて、本当にごめんなさい。
続く言葉に、那子ははっと目を開く。
――お母さんを許して……どうか、湖の主のご加護を。
ざわり、と右腕が疼いた。まるで皮膚の下に虫でも這っているかのような不快感に、全身が粟立った。蠢く何かが、那子の記憶の封印を解き放つ。
物心もつかないほど幼い頃。母の腕に抱かれ、たくさんの山犬に家を追われた。囮となった父は血しぶきを上げて倒れた。母は那子を小舟に乗せて湖に逃がすと、自身は岸に残り山犬たちの餌食になった。
執拗な山犬らは湖を泳いで迫り、那子を襲う。右腕に突き立てられた鋭い牙。赤く流れ出す命の温もり。ただ、死を待つだけの無力な子ども……。
――我が領域を汚すとは、恐れを知らぬ者め。
不意に、水面が割れた。
全ては一瞬のことだった。那子を追っていた獣は波に呑まれて姿を消した。小舟が転覆し、那子は水面に叩きつけられた。
小さな身体は、水の奥底に沈んで行く。暗い暗い、藍色の世界。
ほとんど気を失いかけた幼い那子の耳に、水中にもかかわらず妙に明瞭な男の声が届いた。
「神も神なら巫女も巫女。随分と図々しい。しかし幼子には罪はない。……ふむ、山神の巫女の血筋か。ならば穴守としても使えるかもしれぬな。では、我が眷属の印を刻もうか」
水に溶けゆく淡い意識の中、誰かに右腕を引かれた。気を失う直前、那子の目に映ったのは、暗い水の世界に揺蕩う瑠璃色の双眸と、燐光を放つ蛇のような体躯。それは紛れもなく、龍だった。
「……那子。おい、那子」
赤茶色の長毛に覆われた長い手に腿を叩かれ、我に返る。
何度か瞬きをするうちに、水中に広がる濃密な闇の幻影は、月明かりに薄く照らされる木々の輪郭へと変わる。膜を隔てた場所から発せられていたかのようにぼんやりとしていた音が明瞭になり、那子は意識の底から浮上して、おもむろに顔を上げた。
先ほどよりも近い距離で、白銀の神使たちが壁のように円を描いている。
「私は、山神の巫女の娘」
そして、龍の印を刻まれた特異な存在。ならば、那子にも一連の悲劇の責任の一端があり……そして全てを解決する鍵にもなり得るのだ。




