11 巫女になれますか?①
「覚」
「……よお」
呼びかけてからしばらく。宵闇に沈む藪の中から、赤く光る双眸が現れた。
がさり、と下草を踏み分けて、長毛猿姿の覚が、やや不貞腐れたような足取りで歩み寄る。那子の正面で直立した覚の口から吐き出されたのは、表情通りの不機嫌な声だった。
「ったく、久しぶりに呼ばれたと思ったら、あの画家のことか。あんた、結構ひどい女だな」
「ごめんなさい」
薄雲が流れ、月の面をちらちらと撫でている。
時刻は深夜。那子は一人で家を出て、裏の茂みに立ち覚を呼んだのだ。
そんな自由ができたのは、たぬ子が今宵、露景の部屋で眠っているからである。
数時間前、食事が喉を通らないのか、珍しく夕餉を食べ残したたたぬ子が「今日はおっとさんと寝るう」とぐずり始めたのだ。昼の事件が堪えていて、父がまた意識を失わないか不安だったらしい。
露景の部屋に移した小さな布団に座ったたぬ子は、いったいどこで捕まえてきたのか、小さな手に閉じ込めていた秋の虫を、露景の口にねじ込もうとした。慌てて止めたが、たぬ子としては、父に滋養がある……と考えているものを食べさせて、元気になって欲しかったのだろう。
しかし、羽を擦り合わせてリリリと清涼な音を響かせる虫を口内に突っ込まれては、露景の精神はさらに疲弊するに違いない。
何とかたぬ子を説得して寝つけてから、那子は何食わぬ顔で自室に戻ると見せかけて、こうして外へ出てきたというわけだ。
全ては、山神と出世法螺を巡る問題に終止符を打つため。そして、露景とたぬ子の温かな暮らしを守るためである。
「気に食わねえが、まあ協力してやってもいいぜ」
心を読む妖怪である覚には、何も言わずとも那子の望みは筒抜けなのだろう。彼を呼び出した理由を説明するより前に、覚はどんどん話を進める。
「だが、それなりにご褒美がないとな」
「何が欲しいの?」
「俺の望みはいつも同じさ。つがいになってくれ」
即答できず、那子は口を閉ざす。覚の言葉がただの戯れならば、その場しのぎの回答で協力を仰げたかもしれない。たとえ彼が人の心の内を読むのだとしても、騙すのではなく前向きに検討してみるつもりならば、ごまかしもきくだろう。
だが覚は以前、那子への思いは本気なのだと語っていた。どこまで本当なのか判断がつかないが、覚の言葉の一片に、ほんの少しでも真実があるのならば、軽々しく提案を受け入れることは不義理である。
那子の心にはもう、砂川露景とたぬ子が住んでいて、彼ら以外の家族など、望むつもりはないのだから。
「……けっ、そうかよ」
夜の闇に沈んでいるはずの那子の顔を見つめていた瞳が、すっと逸らされた。覚は背を向けたらしい。
「ほら、行くぜ」
「どこへ?」
「山神の神使のところだよ」
覚はすたすたと山道へ分け入った。那子は慌てて後を追う。
「あの、ご褒美は」
「嫌なんだろ?」
はっきりと言葉にされて、自分の心に浮かんでいた感情の鋭さが胸を刺した。
今さらながらに痛感する。心を読むということは、誰かが呑み込んだ痛烈な発言すらも、意図せず、全て受け取ってしまうということなのだ。
那子の胸に浮かんだ偽善者じみた憐憫に気づいただろうが、覚がそれに触れることはない。ただ、淡々と言う。
「だがな、那子。解決のためには、あんた一人で妖怪画家の家を出る必要があるかもしれねえぞ。いいのか?」
「それは、私が巫女になるということ?」
「神使が望めばな。まあ、巫女の役目も、普通は三十年すれば年季が明ける。そうなったら俺が那子をもらってやるからさ。山神に仕えながらよく考えるんだな。無愛想な半法螺貝か、一途な覚か、どっちがあんたを幸せにできるか」
三十年。二十三歳の人間である那子にとっては、余生のほとんど全てとも感じられる期間である。
露景は、巫女になるなど考えるな、と厳しく言った。その理由の一つには、那子の寿命のこともあったかもしれない。
もし、那子が巫女に任じられたのならば。露景は、忠告に耳を貸さなかった那子に失望するだろう。そして、再び母親を失ったたぬ子は、取り返しのつかない心の傷を負うかもしれない。
「やっぱり私、巫女には……」
だが、それしか方法がないと言われたら?
決心は揺らぎ、行ったりきたりを繰り返す。何と情けないことだろう。自己嫌悪に陥り始めた那子を軽く一瞥して、覚は口を閉ざした。
無言で足を進めると、秋の夜風の冷たさが、よりいっそう身に染みる。
家を出る前に物置から引っ張り出してきた古風な龕灯の揺れる明かりに照らされて、黒塊の群れのような森に、辛うじて輪郭が生まれている。
そんな険しい山道を、覚は躊躇いのない足取りで進んで行く。やがて、木々が開ける場所に出た。
冴え冴えとした月が、小さな広場を青白く照らし出している。まるで霜が降りたかのように淡い光を纏った広場の中央に、それはいた。
白銀の山犬だ。
月明かりを弾き普段よりも寒色を帯びた身体は、頑強ながらも優美な曲線を描いている。すっと伸びた背筋と、ふっくらとした長い尾。まるで、白い胡粉を刷いた紙を端から藍色で彩色していき、最後に残された白い部分のように汚れのない山犬の姿は、一つの絵画のごとく神々しい。
彼が神使だと知らなかったとしても、何か神聖な存在なのだろうということは誰の目にも明らかだった。
神使は、那子たちの訪れを予見していたかのように、澄ました姿勢でこちらを注視している。作り物めいた美麗な口元が薄く開いた。
「自らの運命を確かめにきたのか」
那子は戸惑いながらも足を進め、腕一本分ほどの距離を空けて神使の正面に立った。
近距離で見つめ合う。夜色に沈む世界に佇む白銀の毛並みの中で、ひときわ印象的に光る黄金色の瞳が、那子の全身を舐めるようにして眺めている。
「神を強めるのは、生身の生き物の祈りの力。そしてその能力の強弱は、血筋に左右される。しかるべき力を宿した巫女が仕えれば、山神様の神気が蘇る。そうすれば穴守殿が何もせずとも、山と龍の均衡は保たれるだろう」
「私は巫女になれますか?」
神使はしばらく那子の姿を観察してから、口の裂け目を軽く持ち上げた。鋭利な牙がずらりと並んでいる。ただ言葉を発しようとしただけだろうが、見る者の心をざわつかせるような獰猛さを孕んだ表情だった。
「穴守の役に立ちたいか?」
那子は唾を呑み込んでから、小さく頷いた。未だ、巫女になる決心はついていないのだが、役立ちたいという思いは本物だ。
「ならば適性を見てみよう。さあ、手をここへ」
神使は顎を上下させて己の鼻先辺りを示す。躊躇う那子にしびれを切らせたのか「見るだけでは何も起こらぬ」と告げ、自ら距離を詰めた。
黒い鼻先が、那子の着物の表面を撫でる。神々しいまでに美しい獣のなすこととはいえ、全身を嗅がれることは恥辱的であり、触れられた部分を中心に肌が粟立った。
「ほう?」
神使の鼻が、那子の右腕辺りで停止した。袖の下に隠しているものを察したのだろう。思わず那子は、右腕の醜い痣を庇うようにして半身を引いた。
神使は人間じみた調子で器用に顔をしかめる。
「……生臭い。水の臭いだ」
興味を失ったように……いいやむしろ嫌悪を露わに吐き捨てて、神使は呆気なく踵を返す。
「そなたはだめだ。生臭い娘など、山神様は好かぬ」
それはつまり、那子には巫女の資格がないということなのだろうか。安堵のような、落胆のような、複雑な感情が去来する。
(それじゃあ、私はいったいどうすれば)
途方に暮れかけた、その時だ。
「へえ、ここで手放していいのかい?」




