10 そして、心を決めた
ただでさえ地震に怯えていたたぬ子だが、目の前で父が倒れるという二重の衝撃を受け、火がついたかのように泣き出した。
「こちらは任せて」と申し出てくれた橋爪に露景を自室まで連れて行ってもらい、那子はたぬ子をあやすことに専念した。やがて、泣き疲れて眠った茶褐色の小さな身体を布団に横たえると、那子は露景の部屋へと向かう。
「橋爪さん。ご負担をおかけしてしまい申し訳ございません……お茶でもいかがですか?」
室内では、露景が仰向けに横たわり、眉間に軽く皺を寄せて苦しげだ。その枕元に座り、急病人の額に浮いた汗を拭っていた橋爪は、眼鏡の下で人のいい笑みを浮かべて首を横に振る。
「いいえ、お気遣いなく。それよりも、町から医者を呼んできましょうか」
「……それには及ばない」
会話により眠りから揺り起こされたのか、露景が薄く瞼を上げて口を開いた。
「旦那様、ご無理なく」
腕を突き上体を起こそうとする露景をすかさず支える。露景は素直に那子の手を借りて、布団の上に座った。
「橋爪さん、面倒をかけました」
「え、いやいや。面倒なんて。それよりも大丈夫です? 発熱はないようですが」
「ただの疲労でしょう。それよりも」
露景は、血の気が引いたままの顔で、橋爪の脇に置かれた革鞄を示す。
「鯰絵依頼の詳細を受け取りましょう」
「さすがに日を改めますよ」
「早いうちに読んでおきたいのだ」
「はあ、まあそうおっしゃるのなら」
橋爪は鞄を開き、茶封筒を差し出した。
「ご不明点があればご連絡ください。それじゃあ 僕はそろそろおいとまします。ああ、見送りは結構です。奥様は先生についていて差し上げてください」
さすがにどうかと思い腰を上げた那子だが、橋爪が再度「本当に結構ですから」と言うので、やや躊躇ってから、浮かせていた尻を畳に戻した。
がらら、と玄関戸が滑る余韻が屋内に霧散して消えると、辺りには気詰まりな静寂が満ちた。ややして露景は、軽く呻きながら立ち上がろうとする。その肩を慌てて押して、那子は露景を布団の上に戻す。
「安静になさってください」
「そうも言ってはいられない。危うく橋爪さんにも怪我をさせるところだったのだ」
「橋爪さん、にも……」
露景の顔が青い。色の薄い唇から零れた言葉に軽く違和感を覚えたが、その正体を那子が掴みきる前に、露景は続ける。
「地震は、異母兄のせいだ。穴守の私ならば防げたはず……いいや、防がねばならなかったのに」
「この二日、祭壇の前でご無理をなさっていたのでしょう。きっとお疲れなのです。少し休みましょう」
「しかし、穴守の祈りが足りないのであれば、ここで寝ている場合ではない」
「ですが、また倒れては元も子もありませんよ」
さあ、と軽く肩を押して促すと、露景は渋々背中を布団に落ち着ける。
夏が終わり、低くなり始めた秋の陽光が、金色の帯を室内に投げかけている。淡い色に揺れる天井をぼんやりと眺めながら、露景はぽつりと口を開いた。
「聞いてくれるか」
那子は軽く首を傾けて先を促す。露景はどこか遠い場所を見つめながら言葉を紡いだ。
「君に、聞いて欲しいのだ。私の罪を」
罪。その言葉が持つ重さに、那子は声を失った。ただ、脇に下ろされた露景の手をそっと両手で包み込む。
露景はしばらくの沈黙の後、血の気の引いた唇を開いた。
「私の力が及ばないから、夏子は……たぬ子の母親は命を落としたのだ」
那子は、淡々と語られる過去に耳を傾ける。
もう八十年近く前。露景が穴守になったばかりの頃。
当時、山神の力は未だ強大で、穴守などいなくても、法螺貝は神威の前に貞淑な眠りについていた。だから、穴守の任など大した責務ではなく、露景の仕事といえば、気が向いた時に祭壇に祈りを捧げる程度であった。
いてもいなくても、誰も気に留めない、長命な人間。それが彼だった。
存在理由も曖昧な中、ただ規則的に過ぎる日々。無聊を持て余し、孤独に過ごしていたある日のこと。露景は個性的な老日本画家と出会う。次第に交流が始まり、気づけば絵の師匠となっていた老爺は、彼に砂川露景という画号を授け、やがて寿命を迎えて弟子の前から去って行く。
再び一人になって、誰に見せるでもない絵を描き続ける砂川露景。
そんな単調な毎日を賑やかしたのは、たぬ子の両親。子を授かる前の、夏子とその夫であった。だが今回も、幸福は長くは続かない。夏子の夫が、人間に殺められたのだ。夏子は嘆き悲しみ、人間の血を引く露景にも憎しみの目を向けた。彼女もやはり、過去に出会った他の友人たちと同様に、露景の元を去って行く。
露景は何度目かの孤独に深く傷ついて、再び一心不乱に紅い絵を描いた。
数年後、夏子から、再会を願う手紙が届く。久方ぶりの友人からの消息に胸を躍らせた露景だが……ちょうど、夏子が露景を訪ねてきた五月雨降りしきる夕。まるで図ったかのように大きな地震が起こり、落石が夏子とたぬ子を襲う。運命は非情にも、夏子から命を、そしてたぬ子からは母親を奪った。
山を鳴動させたのは、出世法螺の大きな寝言と寝返りだった。本来ならば、穴守が鎮め防ぐべき惨事であったのに……。
一息に、しかし淡々と語られた過去に思いを馳せ、那子は握りしめた手のひらに汗が滲んでいるのを感じた。
露景と夏子、そしてその子であるたぬ子を襲った悲劇を思えば、暗澹たる闇が胸からじわりと滲み出た。たぬ子が異常なほどに地震を恐れた理由も、露景が夏子やその夫の絵を描くことにこだわった意味も、すとんと腹落ちする。
「全ては、法螺貝を鎮めるべき穴守の力不足が引き起こした惨事なのだ」
露景の言葉は、静寂に包まれた月夜の湖のように穏やかだ。しかしその低くまろやかな声の輪郭は、時折、苦しげに形を崩す。
彼は、誤解されやすい人ではあるが、感情がないわけではない。胸の奥に抱えた傷を誰にも見せないように、感触のない水の膜でひんやりと覆い隠しているだけなのだ。
これ以上、誰かを危険にさらしたくはないのだと、露景はぽつりと落とす。その拳は、皮膚に爪が食い込むほど強く握りしめられている。那子は、微かに震える露景の手を撫でた。
「お辛かったですね」
哀れみの言葉など、露景は望まないだろう。だが、喉元から込み上げる苦くて熱い何かを止める術はない。
「大丈夫。橋爪さんにお怪我はありませんでした。今回は、誰も傷ついてはいませんから」
露景の身体が強ばるのが、触れた拳から伝わってくる。天井を彷徨っていた虚ろな瞳が意思を取り戻し、那子を映して、はっと見張られた。
「君は……なぜ泣いているのだ」
指摘されて初めて、頬に流れる熱いものに気づいた。自分の身体に起こったあまりにおこがましい反応に、那子は慌てて指の関節で目元を強く拭い、視線を逸らした。
当事者でもないのに涙を流すなど、まるで偽善者のようだ。頼んでもいない哀れみを露わにされて、露景もいい気はしないだろう。
「ごめんなさい」
「なぜ謝る」
その声に不快の色はない。あるのはただ、純粋な困惑だけだ。
那子の頬に、躊躇いがちな手が触れる。筆肉刺のある硬くて不器用な手のひらが、湿った頬をゆっくりと撫でる。
洟をすすり、怖々と目を上げると、藍色の瞳と視線が重なった。二つの湖面が、揺れている。
露景は本当に、どうしたらいいのか検討もつかないのだろう。感情の薄い顔に浮かぶ確かな動揺を目にして、那子の胸に切ない熱が込み上げた。胸の中に、すんなりと言葉が浮かび上がる。
(ああ、私は旦那様のことが愛おしいのだわ)
この人に、これ以上の孤独と罪悪感を抱かせたくない。
那子は、頬に触れる手にそっと触れ、心を決めた。




