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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第三話 この場所で生きるため、妖怪画家と雇われ妻そして狸は光を描く

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9 山が揺れる

 翌日の午後。玄関の戸が滑る音で目が覚めた。


 たぬ子の午睡に寄り添っていた那子(なこ)は、気づけば眠りに落ちてしまっていたらしい。


 腕の中で瞼を閉じるたぬ子はいつの間にか完全な狸姿になり、身体を丸めている。そのふさふさとした脇腹が規則正しく膨らんだりしぼんだりしているのを確かめてから、那子はそっと布団から出て、寝癖を撫でつけながら主人を出迎えた。


「お帰りなさいませ」

「……ああ」


 上がり框に腰掛け足を拭いていた露景(ろけい)はちらりと顔を上げ、頷きを返す。


 彼が数日家を空けるのには、もう慣れた。むしろ、最近は行き先を告げてから出て行くようになってくれただけ、ましだと思う。


 那子は、露景の脇に置かれていた、見覚えのある風呂敷包みを拾い上げる。軽い。握り飯は完食してくれたらしい。


「もうお兄様の穴は大丈夫なのですか?」

「ひとまずは」

「ということは、まだ解決はしていないのですね」


 足を清め終えた露景は廊下に上がり、自室の方へと向かって行く。


「君が気にすることではないよ」

「でも、もし山を下りなくてはいけなくなったら、たぬ子さんが肩身の狭い思いをします」


 大正の世になり怪異が人間社会から遠く隔てられ始めても、妖怪は幻想上の存在などではなく、実在するというのは自明のことである。たとえ、帝都どころか生家の屋敷からほとんど出たことのない深窓の令嬢であったとしても、その認識に変わりはない。


 だから、たぬ子を連れて人の町に下りたとしても、暮らしていくことはできるだろう。しかしそれは、那子たち歪な家族にとって、好ましい生活とはならないはずだ。


 隠れるようにして山に住まう暮らしが正解なのかと問われれば、軽々しく頷くことなどできない。だが、少なくともたぬ子や露景にとっては、人間の世は明るすぎる。


 隣人の心に寄り添い、互いの事情に足を踏み入れ合って、そうして絆を築いていく人の世界。出る杭を打ち、異質なものを排除しながら、和を保つ人間社会はきっと、妖怪の血を引く露景やたぬ子にとって、息苦しいものだろう。


 血のつながらない親子。それどころか、家族三人、種族すら異なるのだ。好奇の目にさらされるだろうことは、この国が港を開く前後の異国への反応を思えば、想像に難くない。


「神使様は、巫女を探しておられるのですよね」


 那子は風呂敷包みを抱えて露景の背中を追う。


「私に何かできませんか? 神使様は私に興味をお持ちでしたよね。それなら、もしかすると私にも素質が」

「だめだ!」


 粛々としていた衣擦れの音が、突然鋭さを帯びて那子を刺した。露景が足を止め、勢いよく振り返ったのだ。


 普段は感情を読ませることのない冷えた顔には今、眉間を中心に深く皺が生み出されている。いつにない苛立ちを纏った瞳が鈍い藍色に光り、那子は思わず動きを止めた。ひんやりとした廊下の板が足裏を凍らせる。


「だめだ」


 もう一度、噛んで含めるように、今度は穏やかな声音で露景は続ける。


「いいか、そのようなこと、二度と言ってはいけない。約束してくれ」

「どうして」

「君は巫女がたどる運命を理解していない。巫女も穴守も、仕えるべき存在に縛られ、自由を失い、一方で重責ばかりに身を押しつぶされる哀れなもの。枷に繋がれた囚人と何も変わらない」


 苦いものを噛み締めるように絞り出された声に呼応して、那子は、喉の奥がぎゅっと縮こまるような息苦しさを覚えた。


「旦那様も、縛られて押しつぶされているのですか」


 露景は、はっと息を呑む。それから数回瞬きをしてから、いつものように平坦な表情に戻ってかぶりを振った。


「すまない、忘れてくれ。とにかく」


 静かな湖面のような目は那子の視線を受け止めず、所在なげに風呂敷の辺りを一瞥してから前方へと戻された。


「巫女など」


 その時だ。


 どん、と地面が突き上げられるような衝撃に襲われた。たたらを踏んだ拍子に自分の足同士が絡んでしまう。倒れかけた那子は、反射的に腕を伸ばした露景に抱き留められて、転倒を免れる。


 地震だ。離れにあるたぬ子の部屋から、わあっと怯えた声が上がった。


「たぬ子さん!」


 露景の腕から飛び出た那子を待たず、四つ足のたぬ子は自ら、転がるようにして那子たちのところへと駆けてきた。


 なおも続く地震によろめきつつ、床に膝を突いてたぬ子を胸に抱く。


「うわあああん」


 小さくてふわふわとした狸姿が、小刻みに震えている。茶褐色の毛が逆立ち、身体が一回り大きく見えるほどだ。


「大丈夫、怖くない、怖くないわ」


 気休めにしかならないだろうが、できるだけたぬ子の身体に揺れが伝わらないように身体を丸め、愛おしくて小さな体温を全身で包み込んだ。


 大きな地震だ。しかし、未曾有の、というほどではない。にもかかわらず、たぬ子の怯え方には尋常ならざらぬものがある。


「大丈夫、大丈夫。お母さんがいますからね」


 安心させようとして囁いた言葉には、もちろん深い意図はない。しかし、たぬ子は全身をびくりと跳ねさせてから硬直する。つぶらな瞳が見開かれ、那子の顔を凝視した。


(え、何……)


 妙な反応だと訝しむが、その違和感も長くは続かない。何とも目まぐるしいことに、門の方から鈍い落下音。同時に男の叫び声が発せられたのだ。


 次に顔色を変えたのは、露景であった。那子とたぬ子を落下物から守るように覆い被さっていた露景の頬から、すっと色が引く。やがて揺れが治まると、彼は那子とたぬ子に怪我がないことを確認し、何も言わずに縁側から庭に下りた。悲鳴が上がった辺りの様子を確認しに行ったのだろう。


 一拍遅れ、那子もたぬ子を抱いたまま後を追う。立ちすくむ露景からやや離れた場所に、両腕を寒そうにさする背広姿があった。


「おお、びっくりした。危うく頭を打つところだった」

橋爪(はしづめ)さん?」

「あ、どうも、先生に奥様。……と、その、たぬき……ごほん、お嬢さんも」


 冷や汗でずり落ちかけた眼鏡を押し上げて会釈したのは、先日、鯰絵の依頼をくれた新聞社出版部の橋爪である。


 彼の足元には、門から降ってきたらしい木片が転がっている。間一髪、直撃は免れたようだが、打ち所が悪ければ簡単な怪我では済まなかっただろう。ぞっと背筋が冷えた。


 那子は、なおも毛を逆立てるたぬ子を撫でながら、ぺこりと頭を下げた。


「すみません。門が古かったようで」

「いえいえ、私も不注意だったので。それにしてもすごい地震でしたね。やっぱりここは先生に早いところ鯰絵をお描きいただかないと。ああ、そうだ。今日は依頼の詳細を持ってきたんですよ……って、先生?」


 橋爪の声が不自然に途切れた。彼の視線を追って、那子は喉の奥で小さく悲鳴を上げる。


 露景の顔が、蒼白になっていたのだ。そればかりではない。肌寒さを覚えるほどの秋風を浴びているにもかかわらず、側頭から首筋に汗が流れている。やがて、ぐらり、と露景の身体が傾いだ。


 まるで、時がゆっくりと動いているかのようだった。


「先生!」


 橋爪が上ずった声を上げ、後ろに倒れかけた露景を抱き留める。そのままその場にしゃがみ込む格好になった橋爪と、完全に意識を手放した露景を見下ろして、那子は声一つ上げることができず、ただそこに立ちすくんでいた。

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