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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第三話 この場所で生きるため、妖怪画家と雇われ妻そして狸は光を描く

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8 お耳も尻尾もないの、どうして?

「おっかさん、たぬのおっかさんなのに、お耳ないのどうして?」


 その晩も、露景(ろけい)は帰ってこなかった。


 漆黒の夜が、まるで濃度の高い墨汁のように垂れ込めている。昨日の日中には、帝都と山、それぞれからの来客に賑わった砂川家も、今は深閑とした闇の中で静まり返っている。


 その静寂を割り、布団に横になったたぬ子の心細げな声が寝室にじわりと広がった。


「おっとさんも、尻尾ないよ。何で?」


 ぐすん、と洟をすする音がする。添い寝をしつつ、半狸姿をしたたぬ子の髪を撫でる那子(なこ)の手が、一瞬止まる。背中を向けているので顔は見えないが、たぬ子の顔は涙と鼻水に濡れているのだろう。


 愛おしい子の心の傷を思い、那子は息の仕方を忘れたように呼吸を乱す。それから細く長く空気を吸い込んで取り繕うと、再び愛撫の手を滑らせて物思いに耽る。


 今朝、握り飯を手に、露景が籠もっている祭壇を訪れた那子は結局、彼らの邪魔をしてしまったのだろう。「帰りなさい」と淡泊な口調で告げた露景の表情がいつになく強ばって見えた。何か難しい話をしている様子だったし、白銀の山犬姿をした神使(しんし)は別れ際、不穏なことを言っていた。


 ――妖狸の子を連れて山を下りなければならなくなるかもしれぬぞ。


 それはつまり、露景が穴守(あなもり)の任を果たせず、山を追われるということなのだろうか。


 神使は「巫女がいれば」と言った。そうして、舐めるような視線で那子を観察した。


 思えば神使は、夏に砂川家の門前で初めて顔を合わせた時も、那子のことを不自然なほどに凝視していた。あの時は、「シンシ」が何を差すのかわからなかったのだが、やがてシンシは神使であり、山神の聖なる使いであるのだと知った。その神の使いが、言ったのだ。


(巫女がいれば……)


 神使の様子を見る限り、その役目に那子を、という考えが過ったのだろう。巫女の役目がどのようなものなのか詳しくは知らないが、少しでも露景やたぬ子のためになるのであれば……。


「お耳がある人たち、何だか懐かしい匂いがした。たぬの最初のおっかさんの匂いだった」


 鼻の詰まったたぬ子の声で、思考の底から引き揚げられる。


 たぬ子が言う匂いとはきっと、同族の香りのことだ。たぬ子の鼻は、人間の嗅覚では捉えられないものでも感じ取れるのだろう。


 今年の梅雨に、目の前で母親を亡くしたというたぬ子。あまりの衝撃に、一時は親に対する認識が混沌としていたらしいのだが、露景がきっぱりと「最初の母は死んだ」と告げたことにより、徐々に状況を理解し始めた。


 しかし、頭で把握することと、心で受け入れることは別物である。


 今、たぬ子が父母と慕うのは、露景と那子だ。だが、幼子にとって親というものは、自分と同じ種に属する者であるのが自然なのだろう。


(私も旦那様も、妖狸にはなれない。それでも)

「お耳や尻尾がなくても、お父さんもお母さんも、たぬ子のことがいっとう大切よ」

「……おっとさん、帰ってこないのに?」


 いじらしいほどの恨めしさを孕んだ声だ。気の利いた言葉の一つも捻り出せない自分が苛立たしい。寂しさを抱えた幼い娘に、何をしてやることもできない。胸に、太い杭がねじ込まれるような痛みが走った。


「たぬ子さん」


 那子はただ、小さな身体を抱きしめることしかできなかった。

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