7 神使と穴守②
呼べば、那子はまるで、叱られた子どものように身体を縮こめた。
「申し訳ございません。でも、もう一日経ちますから様子を見に……たぬ子さんも心配していたし」
「一日」
もうそれほど経ったのか。
八十年以上生きてなお、三十路程度の外見を維持する露景の感覚では、太陽が昇って沈み、また生まれ直す程度の時間など、大した経過ではない。しかし百年も生きない人間からすれば、一日の不在は不安を煽るほどのものなのだろう。
「すまない」
「い、いいえ。……あの、お話中でしたよね。お邪魔して申し訳ございません。これ、どうかお二人で召し上がってください……あ、でも」
那子は、おそらく握り飯でも入っているのだろう風呂敷を軽く掲げ、白銀の山犬へ視線を向けてから口ごもる。那子の当惑を察した神使は「ふむ」と唸り、ぺろりと舌なめずりをした。
「炊きたての米の豊潤な匂いだ。ありがたくいただこう」
山犬が米を食べると聞き、ほっとした様子の那子は、洞穴の入り口に風呂敷を置く。少しはにかんだような笑みを浮かべ、綺麗な角度で頭を下げた。
彼女はいつも、美味そうな香りを手土産に露景の懐に入り込んでくる。その度にどこか気後れした顔を見せるのだが、那子の行いは善意でしかない。
彼女を不安にさせてしまうのは、露景の側に、厚意を受け取るだけの心の余裕がないだけだ。だがそれを上手く伝える術を持たないのだから、不甲斐ない。
「那子さん」
そのまま去って行こうとする華奢な背中を、思わず呼び止める。少し驚いたように目を見張り足を止めた那子の顔を見つめ、露景は半分唇を開いたまま、言葉を選ぶ。
どうにかして気の利いた声が吐き出されないものかと、もごもごと口を動かしているうちに、何かに興味を引かれた様子で神使が腰を上げた。脇目も振らず真っ直ぐに、山犬は那子の正面へと向かう。それから、空気の色を読むように目を眇め、透明な香りを嗅ぎ分けるようにして鼻をひくつかせた。
「あ、あの」
「穴守よ」
軽く身を引いた那子の声には取り合わず、神使は肩越しに露景を振り返る。黄金色の瞳が、斜めに差し込む陽光を浴びてぎらりと剣呑に煌めいた。
「巫女がいれば。そう言ったな」
「候補はいない」
瞬時に意図を察し、露景は間髪を入れずに返した。
鼓動が一つ大きく跳ねて、全身の血流が瞬時に熱湯へと変わったような心地がした。毛穴という毛穴から火が吹き出そうなほどだ。
「ほう、そうか?」
獰猛さを秘めた山犬の目が、露景をじっと見つめている。露景は思わず拳を握る。
山神が那子に興味を持っていることには、以前から気づいていた。
龍の血を半分しか引かず、長寿以外はほとんど人間と変わらない露景には、那子に巫女としての素質があるのかどうか、判然としない。だが、神使は違う。この山犬はこれまで幾度も山神の巫女を選定してきたのだ。
半妖と神使はしばし睨み合う。状況が読めないながらも、洞穴中に漂うひりついた空気を察したらしい那子は、ただ眉尻を下げて成り行きを見守っている。
やがて視線を切ったのは、神使であった。
「……さようか」
ふい、と興味をなくしたように首を動かして、そのまま那子の隣をすり抜けて祭壇の前へと戻ってくる。
「穴守殿がそう言うのなら。しかし」
思わせぶりな間を空けて、神使は那子を一瞥する。
「もったいないことだ。このままでは、妖狸の子を連れて山を下りなければならなくなるかもしれぬぞ」
「え、それって」
「娘よ」
声を漏らした那子に顔を向け、神使は笑みを浮かべるように口の端を持ち上げる。白い牙が露わになった。
「我は山神様の眷属……神使である。気が向けばいつでも我が元へ」
「気が?」
「那子さん。そろそろ帰りなさい」
被せて言えば、那子の肩が軽く震え、露景は自分の声の鋭さを知った。しかしこれ以上、飢えた神使の目に彼女をさらすのは堪えられないのだ。
那子は、声に打たれた衝撃から我に返ると、戸惑いがちに頭を下げて踵を返す。
従順に光の中へと帰って行くその背中を見送って、露景は安堵と寂寞がない交ぜになった苦いものが喉元から込み上げるのを感じた。




