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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第三話 この場所で生きるため、妖怪画家と雇われ妻そして狸は光を描く

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6 神使と穴守①

 山に眠る出世法螺は神性を持たないが、いずれは神とも呼ばれるほどの神秘を操る龍となる。


 それゆえ、地中にある異母兄の寝所へと続く無数の空気穴のうち、最も大きな穴を守るその洞穴には、神事に利用するための祭壇が安置されている。大規模ではないものの、白布に覆われた清潔な祭壇だ。


 台の上に並ぶ皿には米と塩、徳利には酒と水が整然と供えられており、榊立ての榊は青々として新鮮だ。水に連なる龍の子を祀る印に、糸を通した帆立貝の殻が簾のように垂れ下がり穴を覆っている。


 山奥、それも山肌に空いた小さな洞窟の内である。決して封じられた場所ではないのだが、妖怪たちですら滅多に近づこうとしなかった。


 そんな静謐に満たされた洞穴内。夏でも霊気が立ち込め、ひんやりとしているのだが、凍える季節にはより壮重な気配が肌を刺す。


 露景(ろけい)は祭壇の前に腰を下ろし、瞑目して祈りを捧げた。


 祈れば、露景の精神は疲弊する。生気がすり減るのと比例して、穴の奥で眠る法螺貝の激情は、水をかけられた焚き火が衰えるようにして鎮まっていく。


 人並みならない回復力と長寿以外には何ら妖怪らしい能力を持たない露景だが、やはりこの身には、龍とその巫女の血が流れている。だからこそ、ささやかながらも法螺貝を癒すことができるのだ。


 露景が生まれたのは、飢餓が江戸の町に混沌をもたらした天保の時代。物心ついた時にはすでに穴守の任を得ていたのだから、かれこれ八十年以上、異母兄を祀っている。


 ……どれほどの時間が経っただろう。露景はふと気配を感じて瞼を上げた。


「責務を全うできぬのならば、この山で暮らすことは許されぬぞ」


 ひた、と忍び寄る足音がする。人の足音ではない。もっと柔らかく、山道を進むのに適した者の足音だ。


「以前までならば、大いなる山神様は、法螺貝の居候ごときに勝手を許すことなどなかった。たとえ穴守が未熟であってもな。しかし今、山神様は巫女を失い、神気を養っておられる最中。このような時期にこそ、穴守(あなもり)としての力量が試されるというものよ」


 露景は詰めていた息を吐き、肩越しに振り返る。目に痛いほど鮮烈な早朝の白光を背に、四つ足の獣が背筋を伸ばして立っていた。白銀の山犬。山神の使いである。


神使(しんし)殿」

「穴守殿、夏ぶりか」


 前回神使と顔を合わせたのは、数ヶ月前の夏のことだった。信楽焼(しがらきやき)に化けたたぬ子が狩り人に連れ去られてしまった騒動の後、砂川家の門前で待ち構えていたのである。


 あの時も神使は、近頃の法螺貝の不穏を咎めにきていたのだった。


「法螺貝のことは、弁解の余地もない。対策を考えている」


 最終的には、父である龍に頼む他ないだろう。


 とはいえそれは、任務を放棄するにも等しい行為。できる限り避けたいところ。何せ、露景が父からもらったものといえば、この命と穴守の任だけなのだ。その片方を投げ出すとなれば、ただでさえ、人の姿で生まれた露景に失望している様子の父は、呆れ返るだろう。


 いよいよとなれば背に腹は代えられない。しかしその前に。


「山神に新しい巫女さえ見つかれば」


 そうすれば、過去八十年以上が平穏であったように、山神の力に抑圧された異母兄は唸りを潜めるはずだ。


 だが、神使は軽侮も露わに鼻を鳴らす。


「他者任せか。これが穴守とは、笑止千万」

「巫女の選定は神使の責務だろう。己が選んだ巫女に逃げられた者が何を言う」


 ちりり、と焦げつくような敵意が二人の間で弾けた。しかし相手は正真正銘の神の使い。争うのは得策ではない。露景は小さく嘆息する。


「そもそも、なぜ巫女は消えたのだ?」

「人間の男に攫われたのだ」

「男? 巫女が男と密通をしていたのか?」


 神使は忌々しげに吐き捨てる。


「どうやら、元々許婚同士であったらしいのだ」

「後腐れない人間を選べなかったのか」

「人間は誰しも、人の輪の中で生きるものなのだ。もしあの女に許婚がなかったとしても、他に誰かしら、心に住まわせる存在があるものよ。人はそれを、家族や親友と呼ぶらしいのだが」


 家族。


 その言葉を、まるでまろやかに磨き上げられた珠玉のごとく、愛おしげに舌に乗せる那子(なこ)の微笑みが、脳裏に浮かぶ。そうか、人間は誰しも家族を求めるものなのか。


「そしてこれは、我ら神使の失態なのだが」


 神使はしばしの逡巡の末、牙の間から呻くような声を出した。


「あの巫女は、山に上がる前にすでに身ごもっていた」


 耳に飛び込んだ音が意味をなすまでに、たっぷり瞬き二回ほどの間が必要だった。絶句する露景の隣に歩み寄り、神使はその場に腰を下ろす。


「我らは、男に連れられて山神様の神域を出た巫女を追った。そうしてやっと見つけた時、女の腕には赤子があった。ゆえに我らは、巫女を盗んだ男と母子に、制裁を加えたのだ」


 神使が爪で宙を掻き軽く牙を剥く。つまり、爪牙で殺めたということか。


「哀れだ。捨て置けばいいものを」

「しかし我らも、巫女らに返り討ちにされ、多くの犠牲を出したのだ。仲間の怒りも、もっともだとは思わぬか」


 露景は口を閉ざす。己が当事者ならば、どうだろう。


 人間らしい同情心など持ち合わせていないと思っていた。だがもし、那子やたぬ子が他者に命を狙われていると知れば。露景も同じように、追跡者を罠に嵌めて殺めるくらいのことはするだろうか。


 たとえ名ばかりの家族だとしてもそう思うのだから、何年何十年と深い絆で結ばれてきた者同士ならば、神に刃を向けることも厭わないかもしれない。


 そうして、このような恐ろしげな考えが鬼火のように胸中に灯ったことに、少なからず動揺を覚える。露景は軽く頭部を振った。


「次に巫女がやってくるまで、後七年か」

「しかしそれもどうなることやら」

「というと?」

「港が開かれ、異文化が怒濤のように流れ込み、この国は変わったのだ。うら若き娘を神に捧げるなど、今の人間たちは時代錯誤だと言うのだろう。贄を拒むことが何を意味するかなど考えもせず」


 神使はその怜悧な金色の瞳を祭壇の供物に向けた。どこか遠い場所に思いを馳せるように、目がすっと細まる。


「科学とやらが発展して、夜の闇が街灯により切り裂かれ、妖怪も神も遠い存在となった。江戸の世が終わり、異国の文化がこの地を席巻して久しい。人間が、人ならざるものを恐れる時代は終わったのかもしれない」


 神使というからには、この白銀の山犬は露景よりもずっと永い時を生きているのだろう。人が夜を恐れ、大路を行く百鬼夜行が身近であった頃から……いいやもしかすると、人間が獣と変わらない暮らしを営んでいた時代から、山に仕えてきた可能性もある。


 急速に姿を変えていくこの国の有様は、彼らの目にはどのように映っているのだろうか。


 などと柄にもなく感傷に浸りかけた時。不意に、祭壇の向こう側に空いた穴たちから、ふう、とため息のような微かな風が噴き出した。異母兄が何かに反応しているらしい。怪訝に思い眉根を寄せたと同時に、背後で、ぱき、と小枝が踏み折られる音がした。


 振り返れば、いくらか光度が落ち着いた朝日の中に、見覚えのある女の影が浮かんでいる。


 露景と山犬。二対の目に射貫かれて、彼女はびくりと肩を揺らして胸元で手を揉んだ。


「那子さん? なぜここに」

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