3 彼女たちと過ごし、そして別れた日
おろそかにしていた神事を再開すると、法螺貝はいったん落ち着きを取り戻した。
異母兄が龍となり山から飛び立つまでにはまだ、五十年ほどかかる。露景はひとまず、穴守としての責務を粛々と遂行することにした。
しばらくして、夏子は宣言通り、夫である妖狸を連れてきた。
腹の張った押し出しのいい体格の男だが、生来骨格が丸いと見えて、顔つきはすこぶる優しい。いつもにこやかに茶を飲んで、妻が握った飯を美味そうに頬張っていた。
絵を一枚描いてやり、そこで縁も切れるかと思いきや、なぜか彼らは露景の家の門を定期的に叩くのだ。時には勝手に上がり込み、気づけば二人そろって縁側に茶褐色の尾を並べていることもあった。
彼女らがやってくると、軽やかでくだらない会話が飛び交って、家の空気がふわふわとする。そんな時には、繊細な絵を描く気分になれず、露景はいつも筆を置き、妖狸夫妻の他愛ない話に耳を傾けた。
やがて二人は、露景に人間社会での画家の仕事を斡旋するようになる。
ちゃっかり仲介料をもらっているとのことなのだが、彼女らが多方面で世話を焼いてくれる背景には、放っておくと社交性をどこかへ仕舞い込んでしまう露景への配慮があっただろう。
そんな賑やかな暮らしが日常となり、心地よさすら覚えるようになったある日。二人の足は急に途絶えた。
心通わせた存在との縁が、まるでぷつりと糸が切れたかのように突然失われてしまうのは、露景にとって慣れたことだった。
虚ろに抉れた心の穴を埋めようと、露景は再び、狂ったように筆を動かした。夏子が現れてから描くのを中断していた紅の絵を引っ張り出し、改めて色を乗せ始める。
以前のように、寝食を忘れ、色と線のみと対話する。
それでも露景は、自然と毎日何かしらを口に入れ、最低限の身だしなみを整え、法螺貝の穴にも通った。夏子たちとの日々に影響を受けた証だろう。
そうして、もうどれほど経ったのか。年月を数えるのも忘れたある日のこと。
斜陽差し込む、秋の夕。虚構を描いた手元の紅い絵に、現実の空から降り注ぐ夕日が、まるで太陽まで紅葉に染まったかのような色を注いでいる。その彩りが、不意に翳った。
画面を埋め尽くす紅辰砂がいつかのように、暗色に沈む。
顔を上げて、露景は瞠目する。
「殺されたの。人間に」
呆然と立ち尽くすのは、持ち前の天真爛漫さをごっそりとそぎ落とされた夏子であった。彼女の目はきっと、何も見ていない。ただぼんやりと虚空を眺めている。
柄にもなく言葉を探し、急激に乾いた喉を潤すように唾を呑む。結局、掠れて零れたのは、彼女の名前であった。
「夏子」
呼べば、やっと瞳が動く。洞のような双眸が、風に煽られたようにあてどなく揺れ、やがて露景を映した。
「人間が、夫を……畑荒らしの狸の仲間だと言って。濡れ衣よ。だってあの人は獣なんかじゃない」
「なぜ、人間が」
妖狸は、温厚とはいえ妖怪だ。妖力を有する彼らを害しようとしても、人間の一人や二人で、どうこうできるものではないだろう。ならば、ある程度組織だった掃討作戦か。
夏子がよろめくようにして半歩前へと進む。困惑を露わにする露景にのしかかる影が、より色濃くなった。
「庶民が飢えて山を荒らしているの」
露景は息を呑む。夏子はもう一つ足を踏み出した。
「憎しみが、人を残虐にしたの。あいつら、畑を荒らした獣を駆除するという名目で、山を侵略しようとしているわ。今までは山神様が守ってくださっていたけれど、今は弱っておられるから阻止できなくて……露景、あなたは何も知らず、ずっと屋敷に籠もっていたのね? 山が、獣が、妖怪たちが苦しんでいる時に。ほとんど人間であるあなたが。人間の罪を知ることもなく、まるで他人事のように」
夏子は一度、強く唇を噛み締める。悲嘆の中に、隠しきれない憎悪が鋭い刃を覗かせている。
闇を湛えた夏子の瞳はやがて、ただ息を潜めるようにして見上げる露景の情けない顔を前にして、正気を取り戻す。
「……あなたには関係ないことだってわかっているわ。でも、ごめんなさい。しばらく、人間の顔を見られそうにない」
どろん、と白煙が上がり、夏子の背丈が急速に縮んでいく。代わりにそこに現れたのは、茶褐色の妖狸である。夏子の妖狸姿を見たのは初めてだ。思えば彼女は、最初からずっと、露景に合わせて人間の姿で過ごしてくれていた。
「頭を冷やすわ」
一方的に吐き捨て、四つ足で縁側から飛び下りる。そのまま茂みに紛れて消えた夏子の背中を呆然と見送った露景の手元では、満開の彼岸花が猛毒の紅辰砂を浴びて鮮烈に咲き誇っていた。
それから数年経ち、露景の元に手紙が届く。
ひどいことを言った。また友人として付き合って欲しい。それと、伝えたいことがあるのだ……そんな、率直な言葉を綴った文だった。
手紙を運んできたのは、郵便人ではなく獣か妖怪らしい。消印もなければ宛先も、送り主すら記載がない。それでも差出人は明白だ。夏子に違いない。露景には他に、友と呼べる存命者はいないのだから。
だが、彼女が砂川邸を訪れると予告したその日。異母兄が……法螺貝が唸りを上げたのだ。
それは、五月雨降りしきる夕刻のこと。分厚い雲に覆われた空が鈍色に渦巻く中、突如として地面が咆哮を上げた。
呻くような鳴動は次第に叫びに近い地鳴りと激震に転じ、木々は嵐の晩のように激しく枝を打ち鳴らす。
獣が警戒の声を上げ、鳥が梢から飛び立ち、不穏な緊迫感が山を押し潰そうとしているようだ。
揺れが治まりかけた時、少し離れた場所で、鈍く重たい音が響いた。落雷か。いいやそれにしては、稲光がなかった。あれはおそらく、何かが落下した音だろう。地が揺れて降ってくるものと言えば、落石だろうか。
完全に揺れが収束した時、露景の部屋はひどい有様だった。
小箱が引っくり返り、中に並べていた岩絵具の瓶が畳に転がっている。いくつかは栓が抜けてしまい、大小様々な粒子によって、毒々しい色彩の川ができあがっている。絵皿は割れ、筆が散乱し、すり棒がどこかへ弾き飛ばされて、積んでいた紙が崩れていた。
露景は、足元に転がった小瓶を拾い上げる。部屋を片づけようとした瞬間、何か直感のようなものを覚えて小瓶をじっと見つめた。
紅だ。血のように鮮烈で、悍ましく、そして美しい。
彼女と出会った時も、別れた時も、露景はこの紅を筆に乗せていた。そう気づくや否や、考える間もなく露景は家を飛び出していた。
山はまだ、低く唸り声を立てている。いいや、これは山の声ではない。法螺貝が……露景が鎮め守るべき龍の子が、薄れた山神の神気の網を破り、窮屈な地中から早々に飛び出したいと、微睡みながらも奔放な主張をする声なのだ。
夏子と出会ってから、穴守の任を欠かしたことはなかった。だが露景の力は及ばなかったのだろう。異母兄は悪意なく、大きな欠伸をして寝返りを打ち、山を揺るがした。
空はいっこうに泣き止まない。冷たい礫を浴びながら露景は駆けた。そして、麓の街へと続く坂をいくらか行ったところで、足を止める。
まるで、雷にでも打たれたかのように全身が痺れる。それが治まると、不快な汗が雨と混じり合い全身に張りついて、身体の芯から凍りつく。
ごくり、と喉を鳴らしてから、露景はよろめきつつ足を進めた。泥水が流れる軽い坂道の真ん中で、ぴたりと止まる。爪先には、雨粒を弾く鼠色の布の塊がある。
(まさか)
がくりと膝を突き、鼠色に手をかけて己の方へと軽く引く。布の隙間から、青白い女の顔が覗いた。額は紅く濡れていて、視線を脇に遣れば、人の頭部ほどの大きさの落石が転がっていた。
露景は呻く。冷たい身体に縋りつき、雨とも涙ともつかない雫を頬からしたたらせる。
(夏子)
「すまない、すまない」
穴守としての力不足が恨めしい。いいやそもそも、露景と再び会おうとなどしなければ、夏子はこのような目に遭わなかったのだ。
自責と後悔と、何が何だかわからないほどの激しくどす黒い感情が、露景の胸をかき乱す。重力に抗えず、地に伏した。二度と立ち上がれないのではないかというほど四肢が重い。いっそのこと、このまま……。
「……ふ、あ……」
夏子の亡骸が、腹の下から持ち上げられるようにして揺れた。緩い斜面を流れる茶色く濁った雨水をぺちゃりと打って、鼓動を失い硬直した女の下から、濡れそぼった黒い手が飛び出した。そして。
「だあれ?」
愛らしく幼いその声に、露景の世界は再び息を吹き返す。茶褐色の妖狸。友の忘れ形見だ。ならばせめて、この子だけでも。
「……許してくれ」
懺悔の声は雨に溶け、鈍色の世界に降り注ぐ。




