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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第三話 この場所で生きるため、妖怪画家と雇われ妻そして狸は光を描く

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2 彼女と出会った日②

「ねえ、最近穴を見に行った?」


 何の脈絡もない言葉に鼻白むが、答えなければまた強引に口をこじ開けられそうだ。露景(ろけい)はほの甘い塊を嚥下すると、嘆息と共に言葉を吐き出した。


「いいや。だがどうせ、私の視察など不要だろう。山神が異母兄を抑えているから」

「その山神様なんだけど、三年くらい前に巫女が逃げてしまってから、神気が衰えているようなの」

「巫女が?」


 神に捧げられた無垢な乙女。若かりし頃の母の姿が脳裏を過る。


「哀れだな。自由もなく、神に命じられるがまま身を捧げ、いつ捨てられるとも知れない。逃げ出したくもなるだろう。次の巫女はこないのか」

「巫女は三十年に一度捧げられる決まりよ。あと二十七年ある」

「ならば山神には、もうしばらく辛抱してもらわねばならないな」

「でも大変なのよ。穴の奥からね、最近唸り声がするの。法螺貝よ。きっと、山神様の力では抑え切れなくなっているの」


 露景ははっと顔を上げる。家に籠もり外界への意識がおざなりになっていたが、異母兄の眠る穴に異変があるというのならば、抑えなければならない。


 穴守が守るのは、地の奥底で目覚めの時を待つ法螺貝だけではない。時が満ちれば、神にも等しいほど力を持つ妖怪となる法螺貝。そのゆりかごとなった山を、法螺貝の気まぐれな寝言や覚醒から守るという面もある。


 これまでは山神の圧倒的な神気のおかげで、法螺貝が山に害なすことが防がれてきた。だが女の話によれば、巫女の不在により弱った山神にはもう、法螺貝を大人しくさせておくだけの気力がないらしい。


 法螺貝にとって、穴守は巫女と同じ役割を担う存在だ。穴守は、祈り、捧げ、時には自らの纏う生気を差し出して、仕えるべき高次の存在とその周囲の平穏を守る。


 山神の神力が衰え、法螺貝の眠りに影響を与えているのならば、本来は、誰に言われずとも穴守である露景が一番に事態に気づき、対処をするべきだったのに。


「……それで、私の怠慢を咎めるためにきたということか」


 握り飯も賄賂なのかと、竹皮を指先で持ち上げて軽く宙を扇ぐ。


 自身の膝に置いた腕に側頭を乗せ、斜めに見上げてくる女の瞳にはしかし、非難の色はない。愛嬌のある口元には、薄らと笑みすら浮いている。


「叱るつもりなんてないわよ。ただ、法螺貝を宥めて頂戴って言いにきたの。でもね、いざ噂の穴守の家を訪ねてみれば、おかしくなったみたいにずっと筆を握っている男がいるだけじゃない。しかも話かけてもなかなか気づかない。会話をするのを諦めて次の日にきてみても、また同じ姿勢で絵を描いているし。だからすっごく興味を引かれてね、お近づきになりたいって思ったの」


 だからそれよ、と女の目が、米粒一つ残っていない竹皮を示す。


「まあ、そうでなくても空腹で倒れられたら困るし」

「知っているのだろう? 私は餓死などできない存在なのだ」

できない(・・・・)、ね」


 女は小さく呟いてから、立てていた膝を折り、両手を畳に突いて、書きかけの紅い絵を覗き込んだ。


「そりゃあ、この山の住民なら皆知っているわ。父親は湖に棲み天を操る偉大な龍。母親はその巫女となった人間。人の胎で育ったから、法螺貝ではなく人間として生まれ落ちた。それなら都合がいいと、父君である龍はあなたに母巫女の役目を継がせたの。巫女の適性は血筋に大きく左右されるから」

「詳しいな」

「あなたが思うよりもずっと、穴守は興味の対象なのよ。だって、いざという時には山の命運を託すことになるのだし。まあ後で穴を見に行ってよ。あ、それから」


 女は舐めるように絵を見下ろしてから、標準よりもやや大きめの口を清々しいほど豪快に開いて顔を上げた。


「今度うちの旦那を連れてくるわ。またご飯あげるからさ、代わりに私たちの絵を描いてくれない?」


 唐突な提案に、露景はただ眉を上げることしかできない。しばらくの絶句の後、本日一番の不機嫌声を吐き出した。


「なぜ私が」


 ぶっきらぼうに言い、筆を取る。絵皿の上で膠と水に溶かれた紅辰砂の絵具が、少し乾き始めている。


「あなたの絵が気に入ったの。それに、旦那と一緒に絵になるなんて、一生の思い出になるじゃない」

「近頃帝都では写真館というものが流行っているらしい。撮ってもらうといいさ」

「ああ、あれはだめなの。妖怪は映らないのよ」


 紅の線を引いていた手が、はたと止まる。驚きを込めて見上げた露景の視線を受け止めて、女は口の端を持ち上げた。


「私は妖狸(ようり)なの。夏子(なつこ)って呼んで。あなたの名前は?」

「……穴守」

「それは妖狸というのと一緒でしょう。他に何かないの? 画家さん」


 大きくて丸い眼の中、陽光を弾いた夏子の瞳が赤みを帯びて煌めいている。


 真面目に答える必要などないはずだった。しかし露景は、愚かにもまた、厳重に封じたはずの心の蓋を、ほんの少し開いてしまう。他者と情を結ぶことに飢えていたのかもしれないし、相手が妖怪であれば、龍の血筋ほどではないにしても、人間よりは長生きするだろうと思ったからかもしれない。


「私は」


 砂川露景。


 絵を教えてくれた友からもらった、画家としての名前。それは、穴守という役割以外で唯一、彼自身を表す音であった。

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