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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第三話 この場所で生きるため、妖怪画家と雇われ妻そして狸は光を描く

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1 彼女と出会った日①

 露景(ろけい)は、ただひたすら絵を描いていた。


 心を許した友であり師でもあった画家の老人が山を去ってから、もういくつの季節が過ぎただろう。


 その画家が体調を崩して山を下りたのは、木々が色づき落葉に地が埋め尽くされ始めた晩秋のこと。


「すぐに戻る」と言い置き去った彼の帰りを待ちながら、露景は、埃のように舞う初雪を眺め、街への道が深い雪に閉ざされる季節の移ろいを見届けた。やがて雪解けの音がぱちぱちと空気を震わせる早春。雪の間から萌ゆる草に心が浮き足立ち、桜が咲いて散りゆく刹那に目を奪われているうちに、五月雨の日々がやってくる。そうして蝉の声が聞こえ始めたと思えば、太陽は灼熱の吐息で地上を焼き始める。それに満足すると日差しは和らぎ、再び木々が色づいていく。


 一巡目までは季節を数えていた。しかし、二度目の桜が散った頃から、草木や空の色の変化など、気にもならなくなった。


 彼はもう、帰ってこない。人はすぐに老いて死んでいくのだから仕方のないことだ。待つのも悲しむのも、感情の浪費でしかない。


 そのようなこと、最初からわかっていたはずなのに、いったい何を期待していたのだろうか。


 露景はただ、筆を握った。


 まるで絵を描くことだけが、それを教えてくれた友を弔うことだとでもいうように。


 寝食を忘れ、外へ写生に行くこともせず、ただ自分の中に去来する景色だけを、小さな画面の上に描き出していく。


 幽玄や煌めきや、時には狂気や辛苦を描く。そうして生み出された絵画たちは、まるで取るに足らない物のように室内に積み重なって散乱していく。


 いいや、実際のところ露景にとって、これらの絵は彼の中で渦巻く行き場のない感情を吐き出しただけの存在であり、ありがたい作品でも何でもなかったのだ。


 露景が絵に惹かれ、絵を学んだのは、彼に日本画を教えてくれた友がいたからである。誰に見せるでもない絵など、ただの紙くずに過ぎなかった。


 そんな孤独に溺れていたある日のこと。


「へえ、あんた、すごい絵を描くのね」


 女の声がする。幻聴か。いよいよ気がおかしくなったらしい。


 露景は一瞬だけ手を止めて、それから再び、筆先を紙にこすりつけてしならせる。黙々と作業に没頭する露景の耳に、再度声が届いた。


「ちょっと、無視しないでよ」


 作業部屋にしている一室は、縁側が南に面している。光がよく入り、描画に適しているからだ。だから手元はいつも明るく、日中に翳ることはほとんどない。それなのに。


「ねえ」


 紙本に鮮やかな紅辰砂(べにしんしゃ)の岩絵具を落としていた筆先が、不意に暗色を帯びた。露景はやっと顔を上げる。


 開け放した縁側から差し込む陽光を背負うようにして、見慣れない女の姿があった。


 二十代前半ほどだろうか。露景の外見年齢よりもいくらか若く見える。眼は丸いどんぐりのようで、大きめな口元と相まってどこか無邪気さがある。髪は結い上げず、無造作に後ろで一つに括り、背中に流していた。


「……誰だ」

「近所の住民よ、穴守(あなもり)さん」


 露景は軽く眉を動かした。


 穴守。龍の子でありながら卵で生まれることのなかった不完全な妖怪である露景に、偉大な父が唯一与えた役割。しかし、穴の奥で眠る異母兄は、この山の神気に抑え込まれて寝言一つ漏らさないのだから、大した任ではない。


「何か用か」


 紙をずらし、女の身体が生み出す影から逃れると、露景は再び筆を動かした。ほどなくして、鮮烈な赤で埋め尽くされた画面の端が再び明度を落とす。


「暗い」

「あら、ごめんなさい」


 興味深そうに絵を見下ろしていた女は素直に身体を引いたが、去る気配はない。


 露景はしばらく無言で紅を刷いていたが、さすがに集中力が途切れて筆を置いた。


「用があるなら早く言ってくれ」

「ああ、そうだった。はいどうぞ、おにぎり」


 ずい、と眼前に竹皮の包みが差し出された。炊きたての米の甘い匂いがする。まだほんのりと温かいことが、鼻先に迫った温度でわかる。


 あまりの近距離に思わず寄り目になってそれを凝視してから、眉間に皺を寄せる。


「何が目的だ」

「何って……あなた、ずっと何も食べていないでしょ。あと、髭を剃って水浴びでもしたら?」

「余計なお世話だ」


 つまり、何日も観察されていたということなのだろうか。


 彼女の指摘通り、人間らしい日々の営みからはしばらく遠ざかっていた。


 胃に固形物を入れずに、もう何日過ぎたのか記憶にない。それで衰弱でもするのならばむしろ歓迎するところだが、妖怪の血を持つ露景の身体は人間よりもずっと強靱だ。寝食をおろそかにした程度では、死は足音すら響かせない。


 竹皮の包みから視線を逸らし、筆を取ろうとした時、意思に反して顔が持ち上げられる。女が案外強い力で露景の顎を鷲掴みにし、自分の方へと引き寄せたのだ。


「あのねえ、いいから素直に食べなさい」

「な、むごご」


 いつの間にか開かれた竹皮の中に並ぶ玄米の握り飯。それを露景の口にねじ込んで、女は天真爛漫に笑う。


「はは、すっごい顔」


 さすがに頭に血が上り、顔に押しつけられた物を振り落とそうとして……思い直して渋々握り飯を受け取った。


「何だ、やっぱりお腹が空いていたんじゃないの」

「そうではない。ただ、米に罪はないから」


 露景の母は天保の飢饉の折、天候安定を願った人々により、露景の父である龍神に捧げられた巫女だった。人間の姿をした露景を産んで、龍神に見限られて人里に下りてからも、母は食物を粗末にすることを大いに嫌っていた。


 今さら、もう何十年も前に命を終えた母に思うところなどない。そもそも、彼女は実の息子のことを「穴守様」と呼び、我が子ではなく龍の子として畏怖しながら育てたのだ。そんな親に、情など湧きようもない。


 それでも露景の心の深いところには、母の振る舞いが価値観となって根づいている。命を分け与えてくれる食材たちに畏敬の念を抱くのは、母の影響だろう。


 そんな露景の事情など知るよしもなく、女は意外そうに眉を上げて傍らに腰を下ろした。そのまま行儀悪く、片方だけ立てた膝に肘をかけ、上体をもたれかけさせる。


 むっつりと黙り込んだまま素朴な握り飯を頬張る露景を眺めていた彼女は、米の最後の一粒が露景の口内に吸い込まれるのを見届けてから、唇を開いた。

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