覚の心を覚は知らず
ずっと、居場所が欲しかった。
蓄財もなく刹那的に生きる同族、理不尽な境遇に不満すら抱かない呑気な家族……は、この際どうでもいいとして。
望まずとも覚の心に流れ込んでくる耳障りな感情たちから隔離された、安心して暮らせる場所。そんな平穏な居場所に、妖怪覚はずっと憧れていた。
それなのに。
「おいおい、でっけえ西瓜だなあ」
キイ、と樹上から猿の声がした。小玉の西瓜を二つ抱え、生まれたままの妖怪姿で藪道を歩いていた覚は立ち止まり、声の方を見上げて舌打ちをする。
太い幹に寄りかかるようにして、やや高い位置にある枝上でふんぞり返っているのは、覚と血筋の近い、まあ家族といえなくもない同族である。
定住せず、群れたり離散したりと自由気ままに生きる妖怪覚には、仲間内で呼び合うための名前がない。だから西瓜を抱えた覚は、樹上の覚のことを、大きな瞳が印象的な愛嬌のあるその顔立ちから、勝手に黒目と呼んでいた。
黒目は、不機嫌顔で立ち止まった覚を見下ろして、嘲るように鼻を鳴らす。
「おめえ、本当に何考えてんのかわかんねえよな」
「感情の音が煩わしいのは面倒だろ?」
「覚なら、他の覚に感情を読ませないようにする方法がわかるもんだが、おめえは徹底的過ぎるぜ。無音を通り越して耳が痛てえよ」
口で言ってから口角を上げ、黒目は心の中で覚に語りかけた。
――気を張ってたら疲れるだろ?
(別に)
こちらも口を開かずに答え、西瓜を抱え直して再び足を動かした。
「おい、待て待て」
「何だよ。急いでるんだ」
「怖い顔すんなって。なあ、今日もあの女のところに行くのか?」
「悪いかよ?」
「いいや。おめえが山神に取り入って、俺たちの境遇がよくなるのはありがたいさ。ま、俺は暮らし向きのことなんて、それほど気にしてないけどよ。それよりも」
まるで気怠さの塊を全身に着ているかのような黒目は急に、少し姿勢を正す。身を乗り出してこちらを見下ろし、珍しく言葉を選びながら嘆息した。
――あの女に惚れても、おめえは多分……。
「まあ、おめえのことは俺の知ったこっちゃねえが。ほら、そこの女。おめえにやるよ」
肉声と同時に、心の声をだだ洩れにさせる黒目の視線の先に目を遣って、覚は思わずぎょっとした。黒目が座る枝の真下辺り。木の根の上に、人間の若い娘が膝を抱えて腰掛けていたのだ。
(気配がなかった)
それどころか、生き物ならば皆、ほとんど常に胸の中に生じては消えてを繰り返すはずの感情の泡沫すら、一切感じ取れなかった。
「すげえ静かだろ。そいつ、村八分にあってたらしくてな、感情ってもんがほとんどねえ。村にいても哀れだと思って攫ったはいいが、俺にはちょいと刺激不足だ。だから、おめえにやるよ。おい、娘。その赤茶色の奴がおめえの旦那だよ」
娘はじっと覚を見上げている。骨と皮ばかりが目立つやつれた顔の真ん中で、大きな双眸が不自然に目立っている。枯れ枝のように痩せた四肢を見るに、彼女が冷遇されていたというのは真実のようだ。
娘の心から漂う感情は言葉の体を取らないが、「旦那」だと紹介された赤茶色の猿姿の妖怪には何の感慨も抱いていないらしい。むしろ、もぎたての西瓜の方に意識が吸い寄せられているように見える。
――この娘なら、敏感なおめえの耳を騒がせることもねえ。穴守の女に横恋慕するよりも、おめえにとっては。
(あんたさ、感情を隠すのが苦手だよな)
「てめえっ!」
「なあ、西瓜食いてえのか?」
娘と視線を合わせて訊いてみる。薄汚れて土気色をしていた頬に、軽く生気が戻ったようだった。小さく頷く娘の手に西瓜の一つを押しつけて、覚は踵を返す。
「よく食って元気になれよ」
「あ、おい」
「俺に、女はいらねえ。気持ちだけもらっておく」
ずっと、居場所が欲しかった。
居場所、というのはこの場合、物理的なものを指す。家族に憧れる見澤那子が精神的な居場所を求めるのとは、根本的な相違がある。
つまり覚は、どんな仲間や妻に恵まれたとしても、静かで落ち着ける住処がなければ、心からの幸福を得ることは叶わないないのだ。
だから覚は、樹上の黒目に背を向けた。一つにきりになってしまった西瓜を大事に抱え、山道を下る。背後から、感謝を抱いたらしい娘の温かな感情が覚の胸に迫ったが、気づかないふりをした。
そうして黙々と足を進めていると、雑多な声が脳内に直接飛び込んでくる。
――いかがわしい。覚がまた、人里から人間を攫ってきた。
――野蛮な根無し草。
――この子を近づかせないようにしなきゃ。
「……うるせえなあ」
世に溢れる感情たちに意識を向けないよう調整することは、妖怪覚ならば造作ない。しかし、肉声を捉える鼓膜が自分に向けられる悪意の声ばかりを敏感に掴み取ってしまうのと同様に、暗い感情の波だけは、頼んでもいないのに覚の中に押し寄せてくるのである。
(覚しかいない土地が存在すればいいのに)
黒目は下手だが、普通の覚は己の感情を同族に読ませない術を心得ているものだ。暗く重たい心の声たち全てが、しっかりと蓋をされた感情の箱の中で管理された世界というものに、覚はずっと憧れている。
とはいえ、生き物たちの胸にあるのは、重苦しい感情ばかりということでもない。
――でんでんむし、でんでんむし、美味しいかな……芋虫の方がいいかな……。
砂川露景邸の門前にたどり着いたと同時。じゅるり、とよだれをすする音すら聞こえそうな煩悩が、覚の中に飛び込んできた。
思わず苦笑が漏れて、覚は門から敷地内に入り、玄関の前で声を張る。
「おい、ちび狸。虫よりも美味いもん持ってきたぜ」
一拍置いて足音が迫り、がらりと引き戸が開く。台所仕事でもしていたのか、たすきがけをした那子が、突然の来客を見て目を丸くした。それから、覚の抱えた西瓜に気づくと、ふわりと目元を緩めた。
「いらっしゃい。綺麗な西瓜ね」
――って、開口一番に西瓜の話なんて失礼か。
「今日はどうしたの?」
彼女の心の中には、他者を貶める雑念というものがほとんどない。だから覚は、那子の側にいても、心穏やかでいられるのだ。まあ、那子の場合は、負の感情の矛先が他人ではなくて自分自身に向いているだけ、と言ってしまえばそうなのだが。
「ああ、ちょっと、美味そうな西瓜が手に入ったんだ。ちび狸、西瓜が好きだっただろ。土産だよ」
「それは親切に……たぬ子さん、覚が西瓜を持ってきてくれましたよ」
「え、西瓜!」
どたどたと激しい足音がして、庭の方から、半狸姿の幼子が現れた。
茶色の瞳が金色に煌めいて、西瓜を狙っている。その手には、うねうねと身悶えする青々とした芋虫が捕らわれていた。
「た、たぬ子さん! 芋虫は食べちゃだめ! 西瓜。西瓜を食べましょうね!」
「うん! たぬ、西瓜の方が好きだよ。さっきのてんとうむしさん、何か苦かったし」
――いやああああああ……。
顔面を引きつらせる那子の心の叫びすら、愛おしい。思わず笑い声を漏らした覚に、那子は強張りの解けきらない顔を向けた。
「覚、本当にありがとう。一緒に食べましょう?」
――覚が西瓜を持って来てくれなかったら、たぬ子さんは今もまだ、虫を……。
「ああ、じゃあ俺も」
――小玉の西瓜が一個。どうやって分けましょう。たぬ子さんと覚には多く出して、旦那様は……。
彼女の心の声を聞き、浮ついていた胸の奥が、すっと冷え込んだ心地がした。
「……いや、やっぱりいい」
「え?」
覚は西瓜を上がり框に置くと、意識して飄々した笑みを浮かべた。
「家族の団らんを邪魔したら悪いからな」
「そんなことは」
――私が西瓜の分け方なんて心配したから?
「ちげえよ」
眉を下げた那子に短く告げて、覚は二足で直立したまま、くるりと背を向ける。
「あ、覚」
「礼は今度、たっぷりと期待してるぜ」
振り返らずに、背後に向けて片手をひらひらとさせる。それが済むと四足歩行に戻り、歩調を速めて森の中に逃げ込んだ。
(妖怪画家に嫉妬、か?)
那子には、覚の知らない暮らしがある。それは、いくら彼女の心を覗いたとしても、本当の意味で理解することはできないものだ。
しかし、これが嫉妬という感情なのだとしたら、筋違いも甚だしい。何せ覚は、色恋ではない理由があり那子に近づいたのだから。
(俺はいったい何がしたいんだか)
他人の心を聞くことのできる覚だが、己の気持ちが理解できないなど滑稽だ。
足裏が、少し鋭利な小石を踏んだ。覚はふと、立ち止まる。さわさわ、と木々が揺れている。小鳥のさえずりが賑やかだ。
この山は、数多の命を抱えている。古来から山神に守られた、古きよき山である。その片隅に、覚とその一族は生きている。
より静かに生きる居場所が欲しいのだと、覚は願っていた。そのためならば、何でも利用しようと思っていた。それなのに。
「……まあ、うじうじしても仕方ねえか」
自分の声が、白々しい。覚は自嘲に鼻を鳴らしてから、森の奥、この日のねぐらに決めた巨木の方へと帰って行った。
2.5話 覚の心を覚は知らず 終




