16 もう一つの家族絵
「おっとさーん。おっかさーん! 見て見て」
慌ただしい足音が廊下を駆け抜け、ぎぎぎ、と難儀した様子で障子戸が開かれた。
ねずねと金助が砂川家を去り、そろそろ一月が経とうとしている。蝉の声もまばらになり、日が暮れれば、涼やかな風に乗り秋虫の気配が漂う季節となった。
砂川露景の仕事部屋で茶の世話をしていた那子は、台風のように乱入した小さな身体を抱き留めて、森林の香りのする茶褐色の髪を撫でた。
「たぬ子さん。どうしたの? 急に飛び込んできたら危ないでしょう。お父さんのお仕事部屋には色んな物があるのだから」
依頼で描いている絵を傷物にしてしまっては取り返しがつかない。しかし危険はそれだけではない。
所狭しと畳に積み重なる下絵を踏んで引っくり返るかもしれないし、岩絵具を溶いた絵皿を割って怪我をする可能性もある。もしかすると突撃した先に筆があり、眼球にでも刺さったら……いいや、さすがにそれは悲観し過ぎか。
「見て! たぬが描いたの」
たぬ子は那子の腕の中から自分の右手を引き抜いて、ぴんと斜め上に伸ばした。紅葉のような手には、少し皺の寄った紙が握られている。
「絵か」
露景は湯呑みを置き、袖の下で腕を組んで興味深そうに眺めた。
「うん。おっとさんとー、おっかさんとー、それでこれがたぬだよ」
腕を緩めた那子の膝から飛び下りて、たぬ子は両手で紙の両端を掴み、ばーんと広げる。那子と露景は思わず額を寄せ合って、小さな紙に墨一つで描かれた線をまじまじと見た。
大胆な筆致である。輪郭線の太さはまばらで、ところどころ、収穫したての蓮根のように膨らんだりくびれたりしている。しかし、どこか風情があるように思えるのは、親の贔屓目だろうか。
その蓮根線は、三つの大きな塊を描き出していた。
二つの小山のような人間たちの頭部には、それぞれ海苔のようなべた塗りとうどんのような線で、散切りと長髪が表されている。彼らの胴体から伸びた二本の手は、片方同士がしっかりと繋がっており、弧を描くように伸ばされたもう一方の腕の中央には、丸い耳とふさふさの尻尾の生えた、小さな小山。
つまりこれは。
「家族絵か」
露景がさらりと言ったので、那子はほんのり嬉しくなって、露景の横顔を盗み見た。『家族絵』だなんておこがましい、と気が引けて口に出せなかったのだが、彼は何の迷いもなく認めたのだ。
すぐ側に、感情を読ませない頬の輪郭がある。那子は突然、あの夜のことを思い出し、全身にじわじわと汗が浮くのを感じた。
画家という職業から連想するよりもずっと力強い腕に抱かれ、甘美な痺れをもたらす熱に呼吸を奪われた。雇われとはいえ妻なのだから、別に大したことではないのだろう。
だが、一月経った今でも、吐息の湿り気や着物越しに感じた温もり、墨のような魅惑的な香りの全てを鮮明に思い出せるほど、那子を揺るがした事態であった。
しかし当の露景はまるで何もなかったかのように振る舞うのだから、那子の方もあれは夢だったのだろうか……ならば何という淫夢だろうかと自信を喪失する。結局あの晩の出来事が話題に上がったことは一度もない。
視線を感じたのか、露景の瞳が軽く動いて那子を見た。慌てて目を逸らし、大仰に手を叩く。
「わ、わあ、上手! たぬ子さんが描いてくれたのね。嬉しいなあ。ねえ、旦那様?」
「ああ、上手だ」
「えへへ。でもね、おっとさんみたいには描けないの。いつか、おっとさんみたいになれる?」
「何だ、たぬ子は画家になりたいのか?」
「うん。青い綺麗な絵、描きたい!」
どうやら、先日の『盛夏』がたいそうお気に入りらしい。
露景はふむと唸り、娘の手から家族絵を受け取り文机の方へと移動した。
先ほどまで下絵を描いていたので、硯の海は黒々としている。そこで筆先を軽く湿らせて、近くにあった紙を引き寄せた露景は、たぬ子の描いた絵を写していく。
「ならばまず、線の書き方を教えよう。たぬ子の絵は、子どもらしい愛らしさがあってとてもいい。だから、この芋づるみたいなでこぼこも、それはそれでいい。しかし全てがこれだと緩急に乏しいのだ。こちらへおいで」
有無を言わさず小さな身体を抱き上げ膝に乗せ、露景は自分の手で包むようにしてたぬ子に筆を掴ませた。
「筆は紙に対して垂直に。筆先は……ほら、よくしなる。力のかけ方が大切だ。手首だけで筆を滑らせてはならない。腕からしっかりと動かして、それで」
表面上は淡々としているのだが、露景のことを見慣れてきた那子にはわかる。絵を指導する露景の顔は、水を得た魚のように生き生きとしている。多分、他の者が見ればいつもと大差ない不愛想に見えるのだろうが。
「……そう、線はそれでいい。毎日この練習をするのだよ。何事も、まずは基本が大事だから。そして次は、素描だ。ほら、私の腕を見てみなさい。人の腕には関節があって」
「ううううう」
早くもたぬ子が唸り始めた。那子は我に返って苦い笑みを浮かべる。
「旦那様。今日はその辺りで」
「たぬ、やっぱり塗り絵にする」
「塗り絵か。ならば岩絵具を溶く膠の作り方から教えなければな」
「旦那様……」
「たぬ、今度にするう」
那子の困惑やたぬ子の退屈などほんの一欠片も察した様子のない露景は、ただ簡単に「そうか」と頷くだけだ。
「まあいい。とにかく、この絵はよく描けている」
「本当?」
「ああ。私たちの思い出にしよう。金助殿とねずね殿のように」
――あんたら家族も絵を残したらどうだい?
不意に、姿絵の依頼にきた日のねずねの提案が脳裏に蘇る。
あの時は、家族絵、というものに淡い憧れを抱いたが、まさか実現するとは思わなかった。しかし今、たぬ子の無邪気さにより、願いは簡単に叶えられることとなったのだ。
絵を褒められて嬉しそうにするたぬ子の頭を撫で、露景は口元に柔らかな笑みを浮かべている。
不器用で、人間の常識から少しずれたところがあって、誤解されやすい妖怪画家、砂川露景。しかし那子は、彼の愛情深さ知っている。だからとても、愛おしい。
「君が愛想を尽かせて私の元を離れる時には、この絵が記憶になる」
「愛想を尽かせるなんて。……でも、そうですね。旦那様のご気分を害したくはありません。人生の秋になれば、ちゃんとここを出て行きます」
「私が、気分を害す?」
露景の眉が片方上がる。それから那子を見つめ、軽く首を傾けた。
「生きる速度の差に苦しみを覚えるのは私ではない。君の方だろう」
意図が読めない。那子は、藍色の視線にゆったりとした大きな瞬きを返した。
「……老いた者を見るのは、お嫌だったのでは?」
「そのようなこと、いつ言った」
「だって、この前の」
思い出すと顔が火を噴くように熱くなる。那子は畳の縁辺りへと目を逃がした。
「『老いた君を見るのが恐ろしい』と、おっしゃいました」
言葉はすぐには返ってこない。那子は茹だったような身体がすっと冷えていくのを感じた。
(ああ、また水を差すようなことを……)
後悔に苛まれながら、怖々と顔を上げる。そして、見上げた顔に浮かぶ表情の意外さに言葉を失った。
露景は薄く口を開いたまま瞠目している。そのまましばらく固まってから、やっとのことで声を吐き出した。
「それは言ったが……老いた君が苦しむ様を見ることになるのが、辛いと言ったのだ」
「……え?」
「私と必要以上に情を交わせば、君はいつか心を蝕まれることになるだろう」
「それって」
だから露景はあの晩、那子と距離を置いたのだろうか。
「私は人の姿をした妖怪だ。母の元で過ごした幼少期には、人の輪の中で暮らしたこともある。当然、もう幾人もの人間の死を見送ってきた。中には友情を結んだり、愛おしいと思った人もいた。だが私は、次第に気づいたのだ。近しい人ほど、老いぬ私を恐れることはなく、むしろ己の衰えを悲観し、嘆くものなのだと。それがどうしようもなく息苦しくて、私は人との関わりを減らし、山奥で隠棲するようになった」
「では」
那子はなおも半信半疑である。
「老いた私の醜さを恐れたのではないのですか?」
「言っただろう。冬には冬の美しさがある。むしろ、年を取らない私にとっては、顔に刻まれた皺も白くなった頭髪も、人生の苦難を必死に生き抜いた証のようで羨ましい」
当然のように返される言葉たちは、荒廃した那子の胸に慈雨のように降り注ぐ。乾き切った心の奥に、しっとりとした恵みの雨が染みこむや否や、張り詰めていた全身がふと緩み、思わずふらつき畳に手を突いた。
「おっかさん、大丈夫?」
わからない話に神妙な顔で耳を傾けていたたぬ子が、声を曇らせる。那子は慌てて顔を上げ、笑みを返してから、おずおずと露景へと目を向けた。
いつもの通り、静かな湖面のような瞳が真っ直ぐに那子を見つめている。そこには媚びも見栄もなく、ただ確かな情が宿っている。
「……冬がきても、捨てないでくださいね」
「冬はねえ、みかんが好きだよ」
訳知り顔で言ったたぬ子の天真爛漫さに、もう一つ心が解れていく。
季節が一つ巡り、身体は老いて。しかし大切なものは、切ないほどまろやかに磨かれて、また一つ輝きを増していく。
第二話
まるで夏を切り取るように、妖怪画家は二人を描く 終




