15 まるで夏を切り取るように、妖怪画家は二人を描く
「ほう、これは……!」
那子たちが山の裏側へのお使いから戻り、一週間ほどが経ったその日。蝉の音が青空を震わせる客間にて。微睡むたぬ子を抱いた那子と露景、そしてねずねと金助が座している。
一同の眼前。畳に敷いた朱色の敷布の上に、木枠に嵌まったままの姿絵が、晴れやかに横たわっていた。
夏空のような薄い群青を刷いた下地に、ねずねと金助が寄り添い、少し首を傾けるようにして視線を交わしている。
画面の外側に何か綺麗なものでも見つけたのか、ねずねの小さな指が、どこか遠くに向けられている。繊細な筆遣いで細やかに形作られた薄紅の指先は、いたずらを企むようでいながらも、どこか色気のあるしなりを見せていた。
対して、金助を描く筆致は太く角張り豪快だ。ねずねと笑い合う格好で半分開いた口から、桃色の舌がちろりと覗き、彼の鷹揚さをよく表している。背中に背負った自慢の金は、箔を散らして豪奢に彩られていた。
「盛夏」
露景がいつものごとく、腕を組み唐突に言った。
「君たち二人の生涯の中で、今この瞬間がきっと、盛夏なのだろう」
「ふむ、それは?」
露景は視線を浮かせ、夏の強烈な日差しに焼かれて光る縁側の床を眺めた。
「初春、世界は溶けきらない雪に閉ざされている。しばらくして、凍える白銀の世界に優しい日差しが降り注ぐと、雪解けを迎えて草花が萌える。初々しく戸惑いがちな春の訪れだ。やがて、凜と咲き誇る桜は雨に花を散らし、空に雷鳴がとどろき初夏を迎える。しかしその混乱も長くは続かない。燃えるように情熱的な太陽が雨を焼き切り夏がくる。そして盛夏。暑くて全身が焦がれるようで、戸惑い不快を覚えることもあるのだが、それでいて心は不思議と高揚する」
ふわりと風が吹き込んで、露景の睫毛が小さく震える。藍色を帯びた黒い瞳が動き、無意識にじっと見つめていた那子の視線を受け止めてから、依頼人たちへ向けられた。
「私に絵を依頼してくれた時、ねずね殿は言っただろう。今が一番綺麗だと。それほどまでに今という時が幸福ならば、それはあなたたちにとっての盛夏なのだと思ったのだ。だから、この絵に題をつけるとしたら、『盛夏』だ」
「盛夏、ねえ。だから地色が群青なのね」
(覚が袋に入れてくれた鉱石に群青が多かったからかもしれないけれど)
そんな、雰囲気を壊しかねない言葉はごくりと呑み込んだ。
「でもさあ」
ねずねが桃色の指先でこめかみを掻いた。
「そのうち秋がきて、冬になるんだよね。金助さんと一緒に秋を迎えるならそれもいいけど違うだろう。今が盛夏なんて言われるとね、この後はあたしだけ老いていくんだなって改めてしんみりしちゃったよ」
「秋が、いけないのか?」
露景はいつもの通り、感情の読めない頬をしている。
「人間は秋をありがたがるものだろう、那子さん」
突然水を向けられて動揺しつつ、那子はほとんど反射で頷いた。
「あ、はい。……秋には紅葉を見に、山へ行く人が多いです。遠出しなくても、近くの神社で銀杏を眺める人もいますね」
「はあ、人間って変な生き物だよねえ。そんなに木が好きなら山に住めばいいのに」
「しかしまあ、色づいた山は何百年見ても美しいからのう」
「ん、まあそうね。それで、砂川先生は、あたしに秋がきても落ち込むなって言いたいのかい」
「確かに、季節も老いれば色褪せ萎れ、瑞々しかった葉は全て落ちる」
「ひどいね」
「だが私は裸の木にも力強い美しさがあることを知っているし、それを絵にして飾っておきたいとすら思う。老いを憂うのはきっと、木の方だけだ。秋にも冬にもそれぞれの魅力があって、それを愛でる者は絶えない」
何の飾りもなく、さも当然といった調子で滑り出た言葉は、那子にとって意外なものだった。
先日露景は、老いた那子を見ることになるのが辛いと言ったはず。
あれは、咄嗟に出た言葉だったのかもしれない。だがそうだとしても、彼自身の心の片隅に、人生の冬を迎えた女は哀れな存在であるのだという意識があったからこそ、発せられたものだろう。
だから今、目の前で神妙な顔をしながら語る露景の言葉は、よそ行きに取り繕われて綺麗な塗料で塗り固められた塑像のようなものである。
しかし、ねずねと金助はそのようなこと、知る由もない。
「へえ……先生ったら、何か見つけたみたいだね?」
訳知り顔でにやりと笑まれ、那子は、ぱっと顔を逸らす。何やら誤解があるようだ。浮ついた空気は不相応。やはり居たたまれない。
だが、機微を解さない露景は、びくりと動いた那子の頭を見ても、微かに怪訝そうにするだけで動じない。
「しかしねずね。わしも砂川先生と同じ気持ちじゃよ」
金助が大きな頷きを繰り返し、妻へと熱い眼差しを向けている。
「ねずねが先に消えてしまうことを思えば、どうしようもなく苦しくなる。それは仕方のないことで、わしが堪えなければならないことじゃ。じゃが、ねずねがすぐそばで生きてくれさえすれば、どんな季節じゃろうと、わしはきっと幸福であれる」
「そんなの……その時になってみないとわからないじゃないか。しわしわのよぼよぼで歩けもしなくなった鼠を、変わらず愛せるわけがないだろ。いいんだよ、別に気を遣ってくれなくても。そのためにあたいは砂川先生に絵を描いてもらったんだから。秋でも冬でもない、夏の絵をね」
割り切ったねずねの声に、那子は、喉の奥がぐっと締めつけられたかのような息苦しさを覚えた。ねずねも那子も、長命の妖怪たちから見ればほんの僅かな期間で秋を迎えるのだ。注がれる関心が、これからも同じとは限らない……。
「ううん……たぬはねえ、秋が好きい」
暗い感情に抑圧されて、たぬ子を抱く腕に力がこもっていたらしい。天真爛漫な妖狸を微睡みの国から呼び戻してしまったようだ。
話半分に聞いていたと見えるたぬ子の突然の声に、皆は口を閉ざし、半狸姿の幼子が拳で目を擦るのに注目した。
「なぜ、秋が好きなのだ」
「だってね、おっとさん。秋はどんぐりが美味しいんだよ。柿も栗もお芋もあって、虫さんもこってり」
「虫さんは食べちゃだめ!」
そういえばたぬ子は狸だった。
思わず身震いと同時に高い声を出した那子は、三対の視線を浴びて小さく呻く。
「失礼いたしました」
たぬ子の髪に鼻から下を埋めるようにして、顔を隠した。きょとんとするたぬ子だが、その無邪気な振る舞いにより、空気は解されていく。
「でもね、おっとさんの夏の絵も好き! ねずと亀さん、嬉しそう」
たぬ子が指差した先には、淡い群青の上で幸せそうに微笑み合う旧鼠と鉱亀。
「たぬもお絵描きする!」
もう眠気は去ったのか、たぬ子はもぞもぞと身体を動かして、那子の腕から這い出そうと試みる。慌ててそれを抱きすくめてから、那子はたぬ子の小さな耳朶にささやいた。
「今はだめよ。今度お父さんに絵を教えてもらいましょうね」
「うううう、たぬ、あそこの青いところにお絵描きしたい」
「やめて!」
「いかんぞ!」
その筋では名の知れた妖怪画家砂川露景がたった今納品したばかりの作品に、娘とはえ素人が手を加えるなど、言語道断だ。
息ぴったりに制止の声を上げたねずねと金助は、はた、と顔を見合わせた。そのまま見つめ合い、少し冷静になったのか、やがてどちらからともなく表情を緩めた。
「まあ、先のことをうじうじ考えても仕方ないよね」
「うむ。未来のことはわからない。じゃが、いずれにしても、わしらには離れるつもりなどないのだからのう。あれこれ言っても無駄というわけじゃ。結局は、なるようになる」
距離を置くつもりがないのならば。変えられない時の流れを憂うのは、詮無きことだ。
いつも、うじうじと闇の濃い方向へと迷い込んでしまう那子。その思考の癖は二十三年の人生の中で幾重にも塗り固められてきたものであり、今さらどうこうすることはできない。
しかし、ねずねと金助の夫婦がたどり着いた結論は、那子の胸の奥にふわりと舞込んで、淡い光となり暗がりを照らしてくれる。
「では、絵はこちらでいいのだな。ならば腕のいい表具師に装丁を頼んで、大事にしてやってくれ。絵はどこへ届けさせればいい?」
「そうだねえ、できれば……」
気を取り直して商談の続きを始めた三人をぼんやりと眺める。那子は、あわよくば『盛夏』に一筆加えようと目論む小さな画家がことに及ばぬように宥めながら、卑屈な心を少しずつ清めてくれる、小さく温かな灯火を抱きしめた。




