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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第二話 まるで夏を切り取るように、妖怪画家は二人を描く

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14 妖怪画家のもう一つのお仕事③

 いつしか那子(なこ)は膝立ちになり、身体を乗り出していた。藍色に揺らめく不思議な色の瞳がいつもよりも近くにある。重なる視線が空気を焦がす。畳に突いた膝がむずむずと落ち着かず、沈黙が緞帳のように肩にのしかかる。


「何を、言っているのだ。君は」


 少し掠れた声が、帳を揺らす。


「愚かだ。いつか悔やむ日がくるはずだ」

「私の心は私が決めます。もし悔やむことになっても、自業自得です」


 露景(ろけい)は那子の視線を受け止める。やがて、那子の覚悟に戸惑ったのか、つい、と視線を逸らし、心の澱を吐き出した。


「私は非道な男だ。君が(さとり)と親密にしているのを目にしたとき、盗られたくないと思ってしまった。そのような資格などないとわかっている。だがどうしても、この目は君を追ってしまうのだ。たぬ子を慈しみ、私を嫌悪せず、妖怪たちと馴染んでいく君と共にあれば、私はきっと、束の間の幸福に浸れるのだろう。この願いが君を不幸せにするのだろうと思っても、君がもう後戻りできないように、深い水の底にまで引きずり込んでしまいたくなる」


 瞳が、いつもよりも深い藍色に光って見えた。


(ああ、湖だ)


 その深みに吸い込まれ、囚われていく。いくら手を伸ばしても届かないほど先にある水底はしかし、仄かに温かくすらある。


 未来への不安に警鐘を鳴らすべき心も、理性を叫ぶべき脳も、何ら役目を果たさない。那子はもう、彼という深淵からは逃れられないのだ。それならば、いっそのこと。


「連れて行って」


 自然と漏れた声に、狼狽える間もなかった。どちらからともなく伸ばされた指先が絡まり合って、体温を分け合う部分がじんと痺れるような熱を帯びる。


 彷徨う片腕が、那子の身体を引き寄せた。鼻先に、墨の爽やかな香りが迫る。すぐそこにある瞳は、まるで夏の日差しを含んだ湖水のように、静謐の中に熱を帯びていた。


 何が起こったかもわからないまま、彼のさざ波に身を委ねる。重なった胸部から、力強い拍動が伝わってくる。うるさいほどに反響する自分の鼓動が露景のそれと溶け合っていくのを聞いた。


 筆肉刺のある硬くて大きな手のひらが、躊躇いがちに那子の背中を撫でる。ささやかな稲妻に背骨を貫かれたように、身体の芯が震えた。その瞬間。


「う……」


 がつん、と硬質な音が頭蓋に反響し、閉じた目の奥に閃光が走る。今度はささやかなんてものではない。嵐の晩の落雷のように強烈な光に脳内がかき回された。


 顔を赤くして反射的に俯いた那子の頭頂が、露景の顎に盛大にぶつかったのだ。


 何の艶めきもない無粋な事実を理解して、那子ははっと瞼を上げる。拳一つ分ほど離れた場所にある瞳が、石油洋燈(ランプ)の微光を弾いている。そこにはもう藍色の陰はない。ただ驚きに見開かれるだけだ。


 二人は束の間、時が止まったかのように見つめ合う。視線に熱された那子の頬が、いっそう紅潮していく。露景は腕を解き、珍しく目を泳がせて、畳から飛び出した藺草の一本に視線を固定した。


「……少し、頭を冷やさせてくれ」

「あの」


 反射的に伸ばされた那子の指の間を、体温がすり抜けていく。


「どうかしていた。やはり私は、臆病なのだ」


 燃えさかりかけた情愛の名残が漂う室内を、突然氷柱が貫いた。


「私は、老いていく君を見るのが恐ろしい」


 ひゅっ、と那子の喉が鋭く鳴る。疼いた熱が全身の肌から霧散していく。


 老いて、醜くなって、枯れていく。そうなる前に捨ててくれてもいい。せめて花弁が鮮やかな間だけでも、心の片隅に飾って欲しい。心の底からそう思った。しかし彼は、色褪せていく過程を見ることすら辛いのだという。ならば那子の言葉は全て、独りよがりでしかない。


(ああ、やっぱり私はだめね)


 胸の前で拳を握り少し背中を丸める那子を一瞥し、露景は文机の前に座り直した。そのまま腕を組み、難解な文書の解読でも試みているかのような顔をする。


 その視線の先、文机の上には画材が整然と並んでいた。


 硯の海は墨で艶やかに満たされている。描きかけの下絵の側に置かれた筆先は黒く濡れていて、露景がつい先ほどまで和紙に線を描いていたのだと示している。


 と、いうことはつまり。


(私、またお仕事を中断させてしまって。それで集中力が途切れてしまったのだわ)


 だから、あんなに眉間に皺を寄せているのだろう。墨の乾きかけた筆先が、那子を恨めしく睨んでいるような錯覚を抱く。もう散々な迷惑者だ。居たたまれずに、那子は小さく頭を下げた。


「すみません。お邪魔を、しました……」


 露景が顔を上げた気配がしたが、いったいどのような表情をしているのか確認する勇気はない。


 那子は俯いたまま膝を浮かせ、中腰でそそくさと部屋を出る。慌てていたものだから、障子戸を閉める音が高く響いてしまう。しかしそれを取り繕う余裕はない。ただ足早に、たぬ子が健やかな寝息を立てる部屋へと戻った。


 その晩は一睡もできず、早起きのたぬ子の身じろぎで起床したのは、まだ鳥のさえずりもまだらな時刻であった。

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