13 妖怪画家のもう一つのお仕事②
「君が望むのならば、止めはしない。あの妖怪ならば確かに、君の人生に寄り添える。覚も人よりは寿命が長いが、龍ほどではない。できれば、たぬ子がもう少し大きくなるまでここにいて欲しいが」
淡々と紡がれた言葉たちが、胸の奥へと霜のように降りてくる。露景は那子に、覚と添うようにと勧めているのだろうか。
虫の音が、耳鳴りのように反響している。血の気を失った四肢は冷水に浸けたように冷えているにもかかわらず、夏の夜の湿り気を帯びた不快な熱気が、まるでぬるま湯を絞った薄布さながらに肌に纏わりついた。
「君に、覚を拒む理由などないはずだ。種族の違いは、さほど気に留めないのだろう? 現に、私が半端な妖怪であることを知っても、君の態度は変わらない」
「理由なら、あります」
那子は思わず拳を握った。
「私は旦那様の妻で、たぬ子の母ですから」
「君はいつもそう言ってくれる。だが」
露景の声が、いつになく尖っている。
「これはただの契約だ」
言葉は、これほどまでに鋭利に人の心を刺すものか。止める間もなく湧き出した水の膜が瞳を覆う。無様にもそれが溢れ出そうになるのを、目を閉じてやり過ごす。
「君は契約に縛られている。義務で結ばれた感情など、結局は後悔しか残さない」
那子は伏せていた瞼を上げる。胸を満たしていた遣る瀬なさは、見上げた露景の瞳に浮かぶ暗い陰を察した瞬間、強烈な情へと転じた。
「違う。違います。私は……」
飾らない思いが濁流となり、喉を押し広げた。
「おこがましいことですが、あなたの憂いに寄り添いたいのです。初めて出会った日から私は、旦那様のお心の一端に存在を許されたいと願ってきました。最初は確かに、契約から始まった思いだったのでしょう。でも今は、あなたの目に悲しみが浮かぶのを見るのが辛い。これは、義務から生まれた気持ちなんかじゃありません」
露景は微かに眉を上げて、那子を凝視する。仄かに揺らぐ感情の水面。だがそのさざ波は、幻覚だったのかと自信を失くしてしまうほど、すぐに静まった。
「その痣が、君を家族の温かさから遠ざけたのならば、法螺貝の血筋である私にも負うべき責任がある。だが、私が君にあげられるのは、家族という名前のまやかしだけだ。本当の意味での家族など、私には築くことができない。だって私は、純血の人間よりもずっと、老いるのが遅い。いつか君の若さは散っていく。その時に、居たたまれなくなるのは私ではない。きっと君の方だ」
「以前、そういう人が、いたのですか?」
だから彼は、恐れているのだろうか。
世の中に、おしどり老夫婦と呼ばれる男女は多くいる。しかし紆余曲折ありつつも仲睦まじくあれるのは、双方等しく年を重ねるからだ。
もし寿命に差があれば、片方だけが老いるという歪に蝕まれ、異なる時の流れを生きる二人の間の愛情も薄れていくのだろう。
露景はそれを、身をもって理解している。だからこそ、那子と距離を置いたのだ。
黙り込んだ那子をじっと見つめ、露景は平静に瞬きをするだけだ。しかし那子は、やっと理解した。彼の心の中に巣くうのは孤独への渇望ではない。きっと、手に入れたものを失うことへの恐怖なのだ。
「ずっと一人で生きていくのですか?」
「それが正しいのだ。人でもなく妖怪でもない私にとっては」
「心からそれを望んでいると、本気でそう言えますか」
露景の唇が小さく震える。それでも、少し血の気の引いた形のよい唇が開かれることはない。那子は核心を突いた。
「旦那様も本当は、一人で生きているのが寂しいのではないですか?」
「寂しい?」
二人の間の虚空を眺めていた瞳が動き、那子を真っ直ぐに捉える。
「ねずねさんと金助さんは、寿命の差を覚悟の上で生涯添うことを決めました」
「軽率だ」
「そうかもしれません。でも、人を思う心はきっと、誰にも操ることなんてできないはずです。だからあの二人はきっと、悩んで悩んで、それでも一緒にいたいと思ったはずなのです。私にだって、そのくらいの覚悟はあります」
「出会ったばかりの私に情を抱いているとしたら、きっとそれは、その痣のせい。龍へと転じた法螺貝が君を呪ったからなのだろう。異能を持たない私にはほとんど感じ取れないが、おそらく君の身体の中には、法螺貝の妖力が流れている。君が抱いているのは、子が親を本能的に求めるのと同じ種類の感情だ」
「違う。……いいえ、たとえそうだとしても」
鉱亀の住処から戻った門前で。露景が那子を「妻だ」と言ってくれた時、那子の身体には確かな熱が生まれたのだ。
愛だとか恋だとか、艶めいた感情がどのように胸を疼かせるのか、那子は知らない。しかしこれが慕わしさというものではないのだとしたら、那子は永遠に、愛を知ることはない。
「私は旦那さまよりもずっと早く老いるでしょう。いつまでも若いあなたの姿を追い越して、萎れて縮んで衰えていきます。醜い女だと愛想が尽きたら捨ててくださいませ。けれど、だからこそ、今だけは」
まるで、熱に浮かされたようだった。湧き上がる感情は恥じらいを超越し、那子を突き動かす。
「家族でいさせてください。雇われ妻でも子守女中でもなくて、できれば、本物の」




