12 妖怪画家のもう一つのお仕事①
部屋の隅に置かれた蓋のない木箱の中に、色とりどりの粉末が入った小瓶が並んでいる。岩絵具だ。
それらが石油洋燈の光を弾き、鈍かったり鋭かったり個性豊かに煌めく様に、那子は思わず感嘆の息を漏らす。
しかし、見とれている場合ではない。その場に端座して、那子は核心に切り込んだ。
「旦那様、アナモリとは何ですか。妖怪画家以外にも、お仕事があるのですか?」
問いかけられることを想定していたのだろう。露景は一欠片の動揺もなく袖の内で腕を組む。
「あの覚にそそのかされたのだな」
「そそのかされたのではありません。ただ私は知りたくて……この腕の痣に、何かお心当たりがあるのでしょう?」
露景の藍色を帯びた瞳が、さらしに覆われた那子の腕を捉える。その動きに含まれたささやかな機微を見逃さないように、那子はじっと息を潜めた。
「君の腕に痣が刻まれた経緯について、ということならば、心当たりはない。だが、それが誰の仕業であるのかは、おおよその見当はつく」
「それは」
「私の父だ。もしくは、君が遠方の生まれだというならば、父ではなく私の親族の仕業かもしれない」
やはりそうか。覚がこの痣から砂川露景の匂いがすると言った時から、半ば想定していた回答だ。しかし。
那子は軽い目眩すら覚え、瞼を伏せてから息を整えると、細く問うた。
「旦那様は……いったい何者なのですか」
「私は」
露景は口を薄く開いたまま言い淀む。やがて、嘆息と共に言葉を吐き出した。
「半端ものの、法螺貝だ」
「……ほら……?」
張り詰めた空気が、ばきん、とひび割れるひどい音が聞こえたような気がした。
法螺貝、というのはあの、渦巻き型の巨大な貝で。天狗の持つ神器の一つだとか何とかで、唄口をつけて息を吹き込めば山を震撼させるほどの音が鳴るらしい。その法螺貝が砂川露景?
「厳密には、父が法螺貝、母が法螺貝の巫女……人間だった」
「法螺貝、巫女」
「出世法螺、というものを知っているか」
那子は脳内で浮かんでは消えてを繰り返す困惑の言葉たちの合間を縫って、かぶりを振った。露景は那子の大混乱に気づいているのかいないのか、相変わらず平坦な声音である。
「出世法螺の卵は山の地下深くに産みつけられて、法螺貝の姿で孵る。そうして山の神気を浴びながらゆっくりと成長し、三千年経つと、地面から飛び出して龍になる」
「つまり、旦那様のお父様は、元法螺貝の龍」
露景は首肯した。
「アナモリというのは、穴を守る、と書く。私が守っているのは、この山肌に空いている無数の空気穴。法螺貝……異母兄が眠る場所に繋がる穴だ」
「で、では、三千年経てばこの山からも龍が飛び立つのですか」
「いいや、異母兄の場合はもう少し短い。どうやら母親が法螺貝ではなく他種の妖怪だったらしく、異母兄は純血の龍よりも成長が早いようなのだ。彼が生まれて、まだ二百五十年ほどだが、妖力の宿り方を見る限り、もう五十年もすれば力が飽和するだろうと、以前父が言っていた」
とはいえ、三百年も地中で成長するとなれば、気の遠くなるような話である。那子は呻きつつ、こめかみを押さえた。
「で、では旦那様も以前は土の中に?」
露景顔の法螺貝が地中で蹲る姿が脳裏に浮かぶ。
「いいや、私はどうも、人間の血が濃いようなのだ。人間の赤子として生まれ、大人になるまでは人間の速度で成長した」
「大人になるまでは?」
「私には父のように天を翔けたり天候を揺るがす異能はない。ただ人とは違うのは、老いが遅く肉体の修復が素早いことくらいだろうか」
痺れたように重たい思考ながら、緩慢に理解が追いついてくる。眼前に座す、妙に達観した言動をする男は、実のところ本当に高齢なのかもしれない。那子は怖々と訊ねた。
「旦那様は、おいくつなのですか」
「年齢は、もう数えるのを止めた。どうせ人とは老い方が異なるのだ。年を覚えていても意味はない。だが、私が生まれたのは天保四年。飢饉の年だった。母は、天候の安定を祈る村人により龍の巫女に選ばれて、父に嫁いだのだ」
「天保って」
江戸の時代ではないか。つまり露景は八十代の老人ということなのか。
「では旦那様は、ずっと一人でこの山に住み、穴守をしてきたのですか?」
「そうだ」
老いない身体で、人と同じ時を生きることは許されず。しかし妖怪にもなりきれない、孤独な立場。
年相応に人間の時間で老いていく母を見送る苦悩は、いかほどだったのだろう。もしかしたら弟妹もいたかもしれない。年の近い友人もいただろうし、恋人や、妻を持ったことがあるかもしれない。
しかし彼らが人間ならば、誰もが皆、露景を残して世を去っていく。何年経っても皺の増えない露景を気味悪がって、あからさまに排斥しようとする者もあっただろう。
そうか。だから露景は山に籠もったのだろうか。
何でもないことのように語る彼の顔にはもはや、苦悩すら浮いていない。その事実がどうしようもなく胸を締めつける。
しっとりとした沈黙が、部屋中に垂れ込めた。言葉を探して視線を彷徨わせれば、岩絵具の煌めきが視界の端に映る。那子は、間を取り持つために咄嗟に口を開いた。
「……絵は、どこで学ばれたのです。街にいた頃ですか?」
「いいや、山に入ってからだ。昔、写生のためにこの山を頻繁に訪れる老絵描きがいた。彼は少し変わった人間で、せっかく描いた絵を、滞在していた庵の中に無造作に積み重ね、これは全部ごみなのだ、と言っていた。これほど手の込んだごみがあるものなのかと興味を持った私は、彼に断り紙を持ち帰り、絵をなぞってみた。あれは、彼岸花だった。後から訊けば、彼は長年連れ添った妻と死別をして、弔いの花を描くため山にやってきたのだという」
彼岸の時期に咲く、真紅の彼岸花。魂を導くともいわれる、霊性を感じさせる花である。
「一人静かに紙と向かい合う時間は、私の性に合っていた。紙は劣化するが、人ほどには老いないのだし。私は見よう見まねで模写を続け、ついには自分で写生に出かけるようになった」
露景はふと目を細める。
「暇を持て余していたので、老人の滞在する庵を何度も訪れた。そうして彼の技を眺めているうちに、画材の扱い方や筆のしならせ方を覚えたのだ。彼の気分がいい日には、指導をしてもらえることもあった。砂川露景という名をくれたのも彼だ。『己の目に映ったものを必要以上に美化せず描くおまえの筆致はまるで、実直な自然そのものだ』と言って。ずっと、教えを請えるものだと思っていた。だが彼は人間だ。気づけば白髪が増え、足腰が衰えて、いよいよ山を下りて行った。それ以降、姿を見ていない」
そうして露景はまた、一人になった。
「彼のいない山はまるで、音と色を失ったような心地がしたものだ。私はただ、彼から最初に教わった絵である彼岸花を描き続けた。最初は墨で。しばらくしてからは、鮮やかな紅辰砂で。奇しくもあれは、弔いの花でもあるのだし」
那子の脳裏に、初めて露景の仕事部屋を訪れた日に視界に飛び込んできた、鮮烈な赤が蘇る。弧を描く細い花弁、先に膨らみを持つ針金のような花糸。それらは、黒く下処理された紙本の上に複雑に折り重なっていた。
あの時露景は、亡くなったたぬ子の母親の絵を描こうと苦心していたはずだ。
何度も何度も何度も、誰かに心を許しては置いてきぼりになる。その度に、死者の魂を導くとされる彼岸花を描き続けた露景の孤独を思うと、息が苦しくなる。
「同族の……出世法螺との交流は」
「私は、人の姿をした妖怪なのだ。同族と呼べる者は誰一人としていない。老いぬ私は人里にはいられない。とはいえ、異能なき穴守は、山の妖怪から厚顔な役立たずだと侮られる。父も、少し離れた湖を住処にしていてほとんど出てこない。昔、法螺貝の穴が荒らされた時に一度だけ山にやってきて、不届き者を追い払い私の無能を諫めたが、それきりだ」
誰一人、寄り添う者はいない。隠居の絵師のように、心許せる存在が不意に現れたとしても、露景の人生のほんの一瞬だけを強烈に照らし出し、彗星が流れるように燃え尽きる。強い光が消え失せた夜空には、いっそう漆黒が際立つものだ。
「それは、何て」
辛いことだろう。
その言葉を寸でのところで呑み込んだ。
伯父一家というよりどころがありながも、家族を切望していた那子。露景の境遇と比べれば強欲にもほどがある。那子には、露景を哀れむ資格などない。
「土から出ないとはいえ、この山には異母兄がいるし、遠くへ行けば他の法螺貝が暮らしているのだろう。だが、父以外の出世法螺と言葉を交わしたことはない。ただでさえ、地面や水の中で長い時をすごす種族なのだ。……だから」
露景はふと視線を動かし、再び那子の腕を見た。
「その痣を刻んだのはきっと、私の父だと思うのだ」
なぜならば、露景にはそれが出来ないし、異母兄はまだ、土の中。近辺に住む同族は露景の父だけだというのなら、それが最も自然な推察だ。しかしその動機や経緯は全くもって謎である。
那子は無意識に口元に手を当てた。
「覚なら、理由を知っているのかしら」
妖怪覚は他者の心を読む。もし過去に、事情を知る者と覚が対面したことがあったとしたら……。単に、そんな淡い期待を抱いただけなのだが。
「君は、あの覚を好いているのか」
「え?」




