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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第二話 まるで夏を切り取るように、妖怪画家は二人を描く

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11 勇気を出して

 さて。小さな旅を終え、安寧の夜はしっとりと更けていく。


 濃紺の帳が虫の音を優しく包み込む。下弦の月に照らされた屋敷の輪郭が、銀色を帯びて淡く浮かび上がっている。


 那子は湯浴みをして濡れた髪を乾かしつつ、離れの縁側に佇みそっと辺りを見回した。


 ねずねと金助(きんすけ)が泊まる客間の明かりはとうに落ちている。風呂に向かう前に寝かしつけたたぬ子は深い眠りの底にいるようで、障子を賑わせる影はない。


 ふと、母屋に目を遣った。露景(ろけい)の部屋は今宵も、石油洋燈(ランプ)の黄色い光に揺れている。日暮れ直後までは鉱石を砕く音が聞こえていたが、今はさすがに静まった。


 岩絵具はもう完成したのだろか。それとも、少し常識から外れたところのある露景でもさすがに、夜間に岩を擦るのは迷惑だと思い、他の作業を始めたか。


 とにかく、露景はまだ起きているに違いない。


 那子はごくりと唾を呑み、軽く口元を引き結んで足先を母屋に向けた。


 もう、日付が変わる時刻だろう。このような深夜に何と非常識なことか。そうして躊躇う心とは裏腹に、足取りに迷いはない。那子を突き動かしているのは、夕暮れの門前で、去り際の(さとり)が囁いた声である。


 ――一つ教えてやる。その腕の痣からは、砂川露景と同じ匂いがする。


 那子の人生を縛りつけてきた醜い痣。生まれつきのものなのか、それとも後天的に負ったものなのか。それすらもわからないまま、この赤黒い肌を嫌悪し、時に恐れた。


 まさかそこに、砂川露景の名が関わってくるとは露とも思わなかった。


 覚の言葉は、ただの戯れなのかもしれない。だが、思い返してみれば、記憶の欠片たちがばらばらと胸に引っかかる。


 たぬ子を探して崖から落ちてしまった日。腕の痣を初めて見た露景は瞠目し、それを凝視していた。あの時は、たとえ雇われとはいえ家に迎えた女が傷物だったと知り、嫌悪を抱いただけなのだと理解した。しかし今になって思えば、あれは何かを熟考するような静かな沈黙ではなかったか。


 続いて、たぬ子がこの痣を「いい匂い」と表現したことが思い出される。たぬ子は妖怪だ。覚やお(こう)のように人間よりも嗅覚が優れているのならば、痣から養父の匂いを感じ取っていても不思議ではない。


 たぬ子は人懐っこいが、相性が悪い女中とは散々だったという。那子がすぐに受け入れてもらえたのは、よく知った匂いが近くにある安心感からではなかろうか。


 今宵、もう何巡も繰り返した推測だ。悶々と渦巻く言葉たちを持て余しつつ、那子の足は床板を軋ませる。


 やがて、露景の自室の前へと到着すると、細く深呼吸をしてから呼びかけた。


「旦那様。少し、よろしいでしょうか」


 どれほど腹に力を入れても、声が震えてしまうのが情けない。自然と視線が下がってしまう。


 少し間を空けてから、かたり、と筆を置く音がした。それから軽く床が鳴り、障子戸が滑った。


「どうしたのだ、このような夜更けに」


 墨の匂いがふわりと溢れ、那子の鼻を撫でる。意を決して顔を上げると、露景はいつもの通り、感情のさざ波が見えづらい静かな顔でこちらを見下ろしていた。


「お聞きしたいことがあります」

「明日ではいけないのか」

「昼は、たぬ子がおります。まずは旦那様と二人で話し合いたいことがあるのです」


 我ながら大胆な言葉に、胃がぎゅっと縮こまる。


 露景はその場に立ったまま、眉一つ動かさない。ほんの数秒の沈黙だったはず。しかし何十秒も経ったかのように感じられ、軽い嘔気すら覚えた頃、やっと露景は半身を引いた。


「入りなさい」


 那子は詰めていた息を吐き、軽く頭を下げてから畳を踏んだ。

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