10 お使いの終わりに、秘密の欠片をひと粒
一晩明け、光の筋が木々の間を貫き那子の瞼を温めた。朝日に優しく覚醒を促され、ゆっくり目を開けた時にはすでに、覚や鉱亀の姿はない。那子はだいぶ長寝をしてしまったことに気づいて飛び起きた。
申し分程度の枯れ葉が敷かれた寝床の上に横たわっていたものだから、体中が鈍く軋んでいる。
軽く伸びをしてから洞穴を出ると、池の側で覚たちが言葉を交わしているところであった。
鉱石の詰まった重たげな袋を肩に掛けた覚は、那子に気づくと片手を上げる。
「よお。そろそろ起こしに行こうと思っていたところだ」
「ごめんなさい、眠り過ぎたみたいで」
「いいや、まだ朝だ。とはいえ早めに出ないと、日暮れまでに帰れねえからな」
那子は同意して、お紅の前に膝を突き、視線を合わせた。
「甲羅を分けてくださり、ありがとうございました」
「まあ、もらうものはもらったからね。砂川露景にもよろしく」
「じゃ、行くか」
覚が荷物を肩に担ぎ直し色濃い森に踏み入って行く。那子はもう一度鉱亀たちに頭を下げてから、覚の背中を追った。
いつの間にか、覚の衿の合わせに金助が挟まりしがみついていた。露景の肉筆画もなくなりすっかり身軽になった那子は何か持とうかと申し出たが、覚は「いいとこ見せる機会だからな」と嘯いて、苦もなく帰路を進んで行く。
何度か休息を挟み、ぐるりと山を周り込む。やがて夕日が木々を茜色に染め始めた頃。那子たちは砂川邸の門前に帰りついていた。
「じゃ、俺はここで」
覚は当然のように言い、那子に頭陀袋を手渡した。想定よりも重量がある。道中一人で運びきった覚は息も切らしていないのだが、かなりの負担があったことだろう。
「ありがとう。お礼をしなくちゃ。少し休んでいって」
「いや、いいよ。妖怪画家が嫌な顔するだろうし。それよりも」
覚が距離を詰める。すぐ近くにある彼の口元が、いたずらを企むように弧を描いている。
「あの時の話、考えてくれたか?」
「あの時?」
「俺のつがいにならねえかって話だ。本気だぜ」
軽薄な口調だが、瞳に浮ついた色はない。所作とは裏腹に真摯な眼差しだ。
那子は砂川露景の妻である。だから、覚の思いに応えることはできない。那子の、頑固なほどの露景への義理立ては、心を読む覚ならば誰よりも深く理解しているはずだろろう。それなのに。
「どうして私なの」
それが、解せないのだ。那子は鉱石の詰まった袋をぎゅっと抱く。
思えば覚は、初めて出会った時からなぜか、那子に真っ直ぐな好意を向けてくれていた。那子が覚えていないだけで、過去、どこかで言葉を交わしたことがあっただろうか、と記憶の箱をかき回してみるのだが、心当たりは見つからない。そもそも、以前に会っていたならば、覚は最初からそう言うだろう。
「初めてあんたの心が見えた時、何ていじらしくて可愛い女かと思ったのさ。あんたは他人を恨まない。それと、俺と少し似ている」
「あなたと?」
覚の視線の先に、那子の右腕がある。
「努力ではどうにもならないことが原因で、いつも周囲から遠巻きにされてきた。それと、自分ばかりが劣っていると思って卑屈になっている。そうだろ?」
図星を指され、血が上り顔が熱くなった。抱えた袋が一段と重たく感じられる。
まるで緩い泥濘の上に立ってしまったかのように、どんどん身体が沈んでいくようだった。そもそも、そんな錯覚を抱いてしまうということが、卑屈な本性の現れなのだろう。しかし、覚と似ているということは、つまり彼も何か……。
「そんなところも哀れで可愛いって言ってんのさ」
覚はおもむろに手を伸ばし、那子の右腕に触れた。傷口に触れられた時のように、身体が反射的に跳ねる。引っ込めかけた腕はしかし、覚の手に強く掴まれていて動かない。
覚は柔らかな手つきで那子の袖をまくり、さらしに覆われた痣を引き寄せ……ぺろりと舐めた。
あまりのことに絶句して硬直する。未だ覚の衿に挟まったままの金助が呻き、小さな両手で目元を覆う。指の間からしっかり見えていそうだが。
「この腕は奴にやられたのか?」
「や、奴……?」
頭が真っ白になり、酸欠の魚のように口を開けたり閉じたりする那子を、覚はいつになく真面目な目で見つめた。夏の夕刻に特有の、肌にじっとりと纏わりつくような空気の中に、それとは異なる妙な熱が漂った。
しばしの間、視線を交わし合う。やがて覚はふと表情を緩め、いつも通りの軽薄な笑みを浮かべた。
「何だ、違うのか。『伯父さんに引き取られ時にはすでにあった』? へえ、そうなんだ」
「心を読まないで」
「冷たいなあ」
覚はからからと笑い、那子の腕をぱっと放す。直後、二人の腕が繋がっていた辺りに、濃紺の袖が割り込んだ。
「妻に軽々しく触れるな」
耳朶を撫でるまろやかな低音に、どくん、と鼓動が大きく跳ねて、肌にじんわりと汗が浮く。
穏やかな抑揚で発せられた声はしかし、感情の薄い輪郭の内に確かな棘を含んでいた。
「旦那様」
「妻だって? よく言うぜ。あんた、那子が危険な目に遭ったことに気づいてもいなかったんだろ」
「危険?」
眉間に皺を寄せた露景から問うような視線を投げられて、那子は曖昧に微笑んだ。渓流の辺りで男三人衆に襲われかけたことを言っているのだろうが、もう過ぎたこと。覚のおかげで大事には至らなかったのだし、露景に告げて騒ぎ立てる必要などないだろう。
事件を知ったところで、露景がどのような感情を覗かせるのか、想像もつかないのだが。
「はあ、もう付き合ってらんねえぜ。おい、那子。この甲斐性なしに愛想尽きたら、いつでも呼べよ。それにしても」
覚は声を切ってから、思わせぶりに呟いた。
「やっぱり同じ匂いだ」
匂い。
昨日、謎を残したままついに追及することができなかった単語に脳天を貫かれ、全身に痺れが走る。その一瞬の間を突き、覚の唇が那子の耳朶を擦った。
「那子。今日のところは帰るけど、一つ面白いことを教えてやる。その腕の痣からは――」
告げられた言葉が、脳内で意味を結ばない。那子自身が捉え切れていない動揺の中に何か面白い物でも読み取ったのか、覚はにやりと笑った。
「まあ、真相はあんたの旦那様に聞いてみな。そうだな、まずは、アナモリとは何か訊ねてみるといい」
露景の頬がぴくりと痙攣する。覚はそんな感情の小さな波立ちすらも愉快そうに一瞥し、金助を地面に降ろそうと膝を曲げる。その流れで、羽織袴の内側で身体が縮小。あっという間に四つ這いの姿勢で着物を脱いだ。布の下から現れたのは、人ではなく長毛の猿であった。
「じゃ、またな」
唇をめくり上げて不敵に言い残し、彼は四足で颯爽と駆けて森へと入る。
引き止める間もなかった。赤茶色の背中が消えた木々の間を呆然と凝視する那子の足元で、脱ぎ捨てられた着物がもぞりと動く。黒緑色の亀の鼻先が衣の下から這い出して、大きく息を吐いた。
「おお、窒息するかと思った」
「金助さん!」
母屋の方から、小さな、しかし本人としては精一杯声を張っているのだろう声がした。ちょこまかと砂を蹴る音が迫ってくる。
「ねずね!」
金助は首を回し、四足をばたつかせて羽織の下から完全に這い出すと、道の真ん中で妻と抱き合った。
「お帰りなさい。怪我なんかしてないかい」
「うむ、この通り、ぴんぴんしとる」
微笑ましく眺める那子の視線の端に、茶色い何かがもじもじと動いているのが映る。
顔を向ければそれは、さっと身を引いて、門の陰に隠れた。しかし、ふさふさした毛玉のような尾がはみ出しているのはご愛嬌。那子は口元を緩めて、愛おしい名を呼んだ。
「たぬ子さん」
毛が逆立つように、黒い尾がぶわりと膨らんだ。数呼吸の間を空けて、丸い耳と茶褐色の顔がひょこり覗く。
「おっかさん……お帰りっ!」
狸姿のたぬ子が毬のように跳ね、那子の胸に飛びついた。抱き留めようとして、重たい鉱石を抱えていることに気づくがもう遅い。腕を開いた拍子に頭陀袋が足元に落下して、代わりに胸に縋りつくのは、爽やかな木々の香りがする、柔らかくて温かい身体である。
「ただいま、たぬ子さん。いい子にしていた?」
「うん! ねずとかくれんぼしてた。また遊んでね、ねず!」
「もう金輪際お断りだよ!」
ねずねは全身を震わせてから、きいっ、と牙を剥き、間髪を入れずに切り返す。どうやら二人のかくれんぼは、少なくともねずねにとっては恐ろしげなものだったらしい。
楽しく遊んでもらっていたはずなのに、次回の約束を断られたたぬ子は、きょとんとした顔で首を傾けたのであった。




