9 鉱亀の洞穴②
「え?」
束の間、言葉の意味が咀嚼できず石になる。そんな那子を置いてきぼりに、亀たちは鋭い爪の先で引っ張るように紙の山を崩し、それぞれの絵を食い入るように眺めた。
「ほう、これはお祖母さんの」
「この墨絵、よく見たら下地に兄さんを刷いているんじゃないか?」
「本当だ。白くてきらきらとしていて……おお、こっちは今は亡き家内の……」
目を丸くして見守るうちに、何となく状況が掴めてきた。
つまり砂川露景は、過去にも鉱亀から甲羅をもらい、岩絵具にしてこれらの絵を描いたのだ。
鉱亀らにとっては、自分や知人、場合によっては故人の甲羅が美麗な絵に昇華されているのを見るのは感慨深いことだろう。
物々交換をするための肉筆画を仕事部屋の奥から引っ張り出してきた時には、適当に見繕っただけに見えた露景だが、どうやらきちんと選んだ上で那子に持たせてくれたらしい。
「砂川先生の絵はいつも、あたしたちの思い出を芸術に変えてくれるんだあ」
夢見るような桃色の水晶を背負った小柄な鉱亀がうっとりと言うと、池の周囲は再び、熱を帯びたため息で満たされた。そんな仲間の様子に、お紅も態度を軟化させる。
「ま、まあ、アナモリだってことは忘れて、ただの妖怪画家ってことで取引してあげましょう。ついてきて」
促されて那子たちは、色も形状も様々な亀の間を縫い、やや切り立った岩壁に空いた小さな穴へと向かう。那子が辛うじて直立して進める程度の広さの、やや狭い洞穴内。足場が悪く、明かりのない空間に足が鈍る。
「気をつけろよ」
覚が自然に手を引いてくれる。その導きに迷いはない。人間の姿をしていても、妖怪覚の視力は人間よりも優れているのだろうか。
入り組む岩の裏に回った時、ぼんやりと緑に蛍光する小山が見えた。近づくとそれは、剥がれ落ちた甲羅の山だった。
「この甲羅はね、昼に太陽を当てておくと暗いところで光るんだ。あたしたちはこれを明かり代わりに使っているの」
呆気にとられた様子の那子に軽く説明して、お紅は甲羅の一つを器用に引きずり、逆の壁に近づけた。すると、照らされた岩壁の窪みに、仄かな彩りが浮かび上がる。赤、青、黄色、緑に黒。いずれも那子の頭部程度の大きさだ。
「ほら、好きなのを持って行きな」
いわずもがな、普通の亀は甲羅を落とさない。だから、亀甲が山積みになる一角からは、抜け殻置き場というよりも、亀の墓場が想起され、近づくのがやや躊躇われる。甲羅が周期的に生え替わるなど、さすがは妖怪だ。
「妖怪は寿命が長いからな。普通の亀程度の生涯なら、甲羅がだめになっちまうことはないんだが、鉱亀は長けりゃ万年生きる。さっきみたいなならず者に砕かれたり、ぶつけたり日に焼けたりして痛んだ甲羅を万年頼りにするのは心許ないだろ」
だから、鉱亀の甲羅は生え変わるのだと、那子の感心を心の耳目で捉えた覚が解説してくれた。
なるほど、と頷いてから那子は、我に返って憮然とする。いつの間にか、心を読まれることに慣れてしまったようだ。
「で、砂川先生はどの石が欲しいの」
「ええと」
描くのは、ねずねと金助の夫婦である。彼らの着色に使うのならば、ねずねの毛並みの白銀と、瞳の黒。そして、金助の身体の黒緑と甲羅の金色。瞳は煮詰めた琥珀のような落陽色で、つまりさほど多くの色は必要ない。しかし露景からは、幅広い種類を持ち帰ってほしいと言われていた。
それもそうだろう。背景や飾り文様を描き込むかもしれないし、岩絵具が余ればまた次回の物々交換のために他の絵を生み出せばいい。
(好みで選んでいいのかしら。それとも、画材にしやすい種類の鉱石ってあるのかな)
今さらながら、絵のことをもう少し学んでおけば良かったと後悔する。
たぬ子が持ち去られた事件の後、晴れて『家族』と名付けられた三人暮らし。露景の淡白さは変わらずだが、絵を描いている時に茶を出せば礼を言い、画材や絵具のことを訊ねれば、短いながらもきちんと答えてくれるようになってきた。それでも、那子の絵画への造詣は決して深くない。
「茶を出されたら礼を言うのは当たり前だろ」
「……そうかも」
反射的に飛び出しかけた反駁を呑み込むと、吐き出されずに喉の奥に沈んだ重苦しい塊が、胸をずんと圧迫した。
(家族って何だっけ)
そもそも那子は答えを知らないのだから、救いようがない。覚が軽く肩をすくめながらため息を吐いた。
「いいか、あんたはずっと、家族ってものに憧れていた。だから、みさわ亭から出るきっかけをくれた契約家族の砂川露景に義理を感じて、自分はあいつの側にいるべきなんだ……って、思い込んでいるだけだ。そんなんで幸せになれるかよ」
那子の気持ちはさらに沈む。
(義理、なのかな? ……ううん違うわ。だって旦那様のために何かしてあげたいと思うし、旦那様がたぬ子さんと仲睦まじくしている姿を見ると心が温かくなる。それにあの瞳)
光の加減で藍色を帯びる露景の瞳が、脳裏に蘇る。そこに浮かぶ微かな陰に、どうしようもなく心揺さぶられるのだ。
覚は何か言いたげに那子の横顔を見つめ、軽くかぶりを振ってから、鉱亀の抜け殻の側にしゃがみ込む。
「ったく、世話が焼ける。とりあえず、そこの不気味に光るお化け甲羅以外は全種類もらって行けばいいだろ。……おお、この青い石。藍鉱石じゃねえか。高価なんだぜ。多めに頂戴しておこう」
覚は雑に吐き捨てて、どこからか取り出した頭陀袋に鉱石を放り込み始めた。そんなにたくさん取って嫌がられないだろうかと冷たい汗が流れたが、お紅に気分を害した様子はない。
彼女の深紅の瞳はむしろ、覚の遠慮のない両手ではなく、止まったきり動かない那子の腕に向いていた。
「あの」
反射的に、右腕を引いて左腕でさりげなく覆う。右袖の下に隠された醜い痣には、今日もさらしを巻いている。
「ああ、失礼したわ。でもあんたからは人間臭さがあまりしないから不思議なの。何だか清々しい匂いがするわね」
那子は反応に困って薄く口を開く。左の指が、右の袖にぎゅっと食い込んだ。
「何というか、山神様がお通りになった後みたいに爽やかな……でもちょっと生臭い。不思議ね」
生臭い。あんまりな表現に、思わず袖の匂いを嗅ぐ。
「いやいや、鼻で感じるもんじゃねえよ」
覚が手元から視線を上げずに苦笑する。那子はぼんやりと突っ立ていたことを思い出し、膝を突いて鉱石集めを開始した。
「あなたも感じるの? その、生臭い感じ」
「俺はあんたの匂い、好きだぜ。もっとも、気にくわねえ臭いが染みついているのは残念だけど」
「結局どっちなの」
「だから、那子の香りは好きさ」
わかるようなわからないような、思わせぶりな口調だ。那子が質問を重ねる前に、覚は満杯になった頭陀袋の紐を締めて腰を上げた。
「ま、こんなもんか。なあ、鉱亀の姉ちゃん。もう外が暗い。今晩はここに泊めてくれるだろ?」
「図々しい猿だね」
「猿じゃねえ、覚だよ」
とはいえ、夜の山に追い出すつもりは元からなかったのだろう。お紅はこれ見よがしに嘆息した後、那子たちを洞穴奥の寝床に案内してくれた。




