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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第二話 まるで夏を切り取るように、妖怪画家は二人を描く

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8 鉱亀の洞穴①

 その後は幸いなことに、道中の安全を揺るがす者に出くわすことはなく、目的地へたどり着いた。日はだいぶ沈みかけ、山稜が、溶かされた琥珀のような夕刻の色に染まっている。


 鉱亀(こうき)の住処は、山間の広々とした池と、そのほとりに屹立する斜面にぽっかりと空いた洞穴である。


 人間と覚という珍しい来客を警戒したのだろう。声をかけてみても誰も姿を現さない。ただ、池に細く出入りする水の音と、日暮れ前に寝床へ戻ってきた鳥たちの喧騒ばかりが耳につく。


「降ろしてくれるかのう」


 にゅっと首を伸ばして言った金助を、優しく水辺に降ろす。金助は池を覗き込み、口を大きく開いて、皿を擦るような、きゅうきゅうという声を上げた。人語を操る時には、ややしわがれた男声なのだが、仲間内での呼び合い方は案外可愛らしい。


 やがて、薄ぼんやりと陰る水面に一つ、大きな泡が浮いた。金助が口を閉じると同時に、泡の数はあれよあれよと増えていき、まるで池が沸騰しているかのような光景だ。


 唖然と見守っているうちに、水面が割れて、黒や緑といった鼻先がぽつぽつと飛び出した。そのうちの一つが浮上して、血潮のように鮮烈な紅を背負った鉱亀が全貌を現した。


「あら、あなた。金助ではなくて?」


 どうやら雌らしい。彼女の声に触発されたのか、水中や葉陰から、仲間の鉱亀らが姿を見せる。


 彼らが背負う石は彩りも質感も様々だ。ある者は光を透過する柱が乱立したような結晶を、ある者はざらりとした赤茶色の鉱石を。


「わあ、金助おじさんだ」


 足元に転がっていた何の変哲もない黒石がむくりと起き上がり、那子は危うく悲鳴を上げるところであった。


「おお、お(こう)の君。元気そうでなによりじゃ」


 金助は、ひょい、と片手を上げて喜びを露わにしている。お紅の方も金助を懐かしんでいるらしく、先ほどまでの張り詰めた気配は解け、辺りには友好的な空気が漂った。


「あなたも変わりない……と言いたいところだけれど、甲羅の色が少しくすんだようね」

「最後に会ってから二十年ほどだったかのう。あの時はまだ甲羅が生え替わったばかりだったのじゃから、まあ仕方ないことじゃ」

「あら、まだ二十年だった? もっと過ぎたかと思ったわ。……それで、何しにきたの」


 お紅は、背中に背負った鉱石と同じ深紅の瞳を、那子たちに向けた。見慣れない人間の姿を映す目には、警戒の色が宿っている。


「おお、彼女はあの砂川(すなかわ)露景(ろけい)の細君で、あちらの青年はこの山に住む(さとり)じゃ」


 金助は那子たちをそれぞれ目で示しながら紹介する。那子は慌てて頭を下げ、覚は「よお」と馴れ馴れしく手をひらひらとさせた。


「わしらはのう、皆の背中から剥がれた鉱石を、ちょいと分けてもらえぬのもかと思い、やってきたのじゃ」


 お紅の声に棘が混じる。


「砂川……アナモリのこと? またあたしたちの甲羅で絵を描くつもり? あいつのことは嫌いなのだけれど」

「まあまあ、そう言いなさんなって」

「昔から気に食わなかったのよ。何の力もないくせに、偉そうで。巫女を亡くしてからご苦労されている山神様に対しても、対等みたいな顔をして。それに最近の醜態は目に余るわ。お役目が果たせないのなら、さっさと引退すべきよ」


 まただ。那子の理解が及ばない話が、この山の常識とばかりに交わされている。


 何も知らない。何もわからない。まるで、水に落とされた墨が滲むように、疎外感がじわりと広がっていく。


 脇で拳を握った那子をちらりと見てから、覚は飄々とした調子で言った。


「まあまあ、落ち着けって。アナモリのことは嫌いでも、砂川露景の絵は好きなんだろ?」


 お紅は弾かれたかのように顔を上げ、覚を睨む。表情筋がないので顔はのっぺりとしたままなのだが。


「何を……って、あなた、覚だったわね。勝手に人の心を読まないで」

「自然と聞こえてくるんだから仕方ねえだろ。ほら、那子」


 突然水を向けられて、那子は瞬きする。覚は那子の背中に引っついて膨らむ風呂敷を指差した。


「例のお宝を見せてやれ」

「え、ええ」


 すっかり頭から抜け落ちていたが、砂川露景の肉筆画を背負っているのだった。


 数え切れないほどの眼光を浴びて震えそうになる指先で、風呂敷を解く。藍色の包みを解くと、油紙に包まれた紙の束が露わになった。那子は絵を傷めないように注意して油紙を開き、お紅と金助が向かい合う中間辺りの地面に風呂敷ごと置いた。


 現れたのは、凛然とした孔雀の絵。鉱石を原材料とする岩絵具特有の鮮やかな煌めきを帯びた孔雀が、その優美で絢爛な翼を誇っている。濡れたように艶めく瞳は、まるで本物を埋め込んだかのように生き生きとしている。鉱亀らの間に感嘆の息が上がった。


「砂川露景の肉筆画です。お納めください」

「ふうん、これは」


 お紅は首をうんと伸ばし、彩り豊かな紙本を舐めるようにして観察した。それから、どこか切なげに唸った。


「この色、お祖父様だわねえ」

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