7 はじめてのお使いは危険の色②
突然、首を強く前に引かれ、気道が解放された。空気を求める肺が全身の全ての機能を奪い取る。ただ喘ぐように呼吸を繰り返すことしかできない。
那子は、その場に頽れるようにして蹲る。喉を押さえて咳込みながら細く目を開くと、視界に影が落ちていた。緩慢に顔を上げれば、山中には不釣り合いな羽織袴姿の男の背中が、那子を守るように壁となっていた。
「だ、誰だ。おめえ、は」
見れば、羽織袴の男はならず者の首を締め上げている。つい先ほどまで那子を苛んでいたのと同じ方法で気道を奪われた男は、怒りと呼吸苦のため、顔を赤黒くしている。
「誰だ、だって?」
羽織袴の男の横顔が、斜め後ろから辛うじて見えた。その頬には、抜き身の短刀のような剣呑さが浮いている。
「どうせすぐに逃げるんだろ。名乗る必要はねえよ」
「てめえ、すかしやがって!」
少し離れた場所から急展開を眺めていた残りの二人が激昂して迫り、羽織袴の男に拳を突きつけた。鋭く風を切るような渾身の一撃を、羽織袴の男は、軽く上体を捻っただけで簡単に躱す。
追撃も同じようにひらりと避けられて、ならず者らはいきり立った。
「くそっ!」
「ああ、無駄無駄。あんたらの動きなんて全部筒抜けだから」
「舐めやがって」
やれやれ、と肩をすくめ、羽織袴の男は、掴んでいた小柄な男の身体を半ば投げるようにして突き飛ばす。その身体は仲間二人の動線上に吹っ飛んで、三人は塊になり川へと落ちた。
「行くぞ」
呆気にとられて見上げる那子の腕を取り立ち上がらせると、羽織袴の男は、近くの岩の上でおろおろとしていた金助を鷲掴み、逆の手で那子を引いて上流側へ走った。
肩越しに軽く振り返る。三人の男らは飛沫を撒き散らしながら岸に上がろうともがいている。
「急流でもないし、水深も浅い。冷静になれば死にやしないさ。ってかあんた、あんな奴らの生死なんて気にすんなよ。お人好しか」
那子は、男の横顔をまじまじと見た。頬や鼻梁の輪郭は、全体的に細く引き締まっている。怜悧、というよりは鋭利な印象だ。容貌としては整っている部類に入るだろう。
体格は、中肉中背。帽子は被らず、無造作に切った少し癖のある赤茶色の髪が、足の進みに合わせて風に踊っている。
じっと見つめられていることに気づいたのか、赤みがかった黒色の目が動き那子を捉える。篝火のような苛烈さを秘めた瞳に、那子は軽く息を呑んだ。
それからはっと我に返り、息を弾ませながら頭を下げる。
「あの、助けてくださり、ありが」
「気にくわねえ」
男の瞳の中で火が爆ぜた。
「何かあったら俺を呼べって言っただろ。ところがどうだ。死に際、目の裏に浮かべたのは妖怪画家。狸を心残りにするのはともかくとして、あんな昼行灯に縋ったって何にもならねえよ」
那子は目を瞬かせる。
見覚えのない男である。話したことなど当然ない。
一度でも出会っていれば、これほど特徴的な髪色をした日本人のことは忘れないだろう。だからきっと初対面だと思うのだが、それにしては彼の物言いは確信的で……。
「もしかして、覚?」
「やっと気づいたかよ」
彼は口の端を持ち上げて、にやりと笑う。
「あまりの好青年ぶりに驚いただろ」
「そういうわけじゃ」
ない、と言いかけて、口を閉ざす。先ほど、整った容貌だと感じたのは確かであり、覚が人の心を読む妖怪なのであれば、誤魔化すことはできないのだ。
「人間の女を抱くときはいつもこの姿なんだ。俺とつがいになる気になったか?」
「……」
「けっ」
言葉にせずとも沈黙の裏で零した返答を掬い上げ、覚はこれ見よがしに舌打ちをする。
そのまましばらく走り、脚が重たくなり始めた頃。覚は速度を緩めて立ち止まる。木々の間を縫うように進んでいたので、果たして今、山のどの辺りにいるのか検討もつかない。
伸び盛りの葉と夏の熱気に温められた土の発する濃密な空気の中、那子は荒い息を繰り返す。
一方の覚には、全く疲弊した様子がない。けろりとした顔で那子の呼吸が落ち着くのを待ちながら、ふと思い出したように、鷲掴みにしていた金助を眼前に持ち上げた。
「おい、無事か?」
「無事か、だとお?」
一呼吸分の間を空けて甲羅から頭を出した金助は、覚の顔がある方を睨みつけるのだが、どうやら目を回しているらしく、首がぐらぐらしている。
「おぬし、わしを物みたいに掴んでぶんぶん振り回し……うう、吐きそうじゃ」
「ああ、悪い悪い。それどころじゃなくてつい」
まったく悪びれず、あっけらかんと謝って、覚は金助を杉の木の根元に降ろした。
急なことだったので、まだ平衡感覚の覚束ない金助は足を滑らせて下草の中に突っ込んだ。
「金助さん!」
大分息が落ち着いた那子は、声を上げて金助を助け起こす。那子の顔程度の大きさの鉱亀は、金を背負っていることもあってか、結構な重さがある。覚はよく片手で金助を振り回せたものだ。
「いやはや奥さん、どうももすまんな。わしのせいで危険な目に」
「本当だぜ」
那子はかぶりを振ろうとしたのだが、覚の口から間髪を入れずに飛び出した刺々しい声に遮られた。
「あんたのせいで、那子が怪我でもしてたらどう責任を取るつもりだったんだ」
「うむ、弁解の余地もなく……って、おぬし何者じゃ。奥さんの知り合いなのか」
「つがいだよ」
「つがい……ほう、夫婦か……え、夫婦?」
「彼の言うことは真に受けないでください」
那子はきっぱりと返し、覚の無駄に端正な顔を見上げた。
「とにかく、助けてくれてありがとう。でもどうして私たちが襲われてるのに気づいたの?」
「そりゃああんた、若い女とのろまな亀が二人で山越えなんて、危険だろ。見守ってやってたのさ」
「つまり、つけていたの」
「人聞きが悪いな」
覚はからからと笑ってから、すっと目を細めて虚空を軽く睨んだ。
「あの妖怪画家、あんたが山の裏側に行くのを引き止めもしなかったんだろ。やっぱりあんな男に那子を任せてはおけねえ」
「私が行くと言ったのよ」
「あんたは都会育ちだろ。山の恐ろしさを何一つ知らねえんだ。ただでさえ今は、巫女を失った山神の力が衰えて法螺貝が……いいや、まあいい」
覚は不自然に言葉を切って、顔をずい、と近づけた。吐息が感じられるほど近くに迫った体温に、不覚にも心臓が跳ねる。
(ただ驚いただけ。不可抗力よ)
「へえ?」
那子の心を聞いたのだろう、覚は口元をにやけさせた。せめてもの抵抗に目元を険しくする那子を面白そうに眺めてから、彼はさらりと言った。
「俺がついて行ってやるよ」
何を言われたのか理解が追いつかず、ただゆったりと瞬きをする。覚はもう一度口を開いた。
「だから、目的地まで一緒に行ってやるって言ってんだ。心を読める俺がいれば、危険な輩が近づいても悪巧みの内容が筒抜けだ。俺なら、妖怪からも人間からも、肉食獣からだってあんたを守ってやれる」
確かに、覚の能力は心強い。それに、何だかんだといいつつも、覚はいつも那子を助けてくれるのだ。先ほどだって、不届き者と直接拳を交わしてくれたではないか。
「頼りになるだろ?」
「……そうね」
再び危険な人間や妖怪に出くわさないとも限らない。それならば、ここはありがたく、同行してもらうべきだろう。拒絶したとしてもどうせ、隠れてついてくるのだろうし。
ふんわりと漂う合意の空気。それを破ったのは、金助だった。
「いいや、待つのじゃ」
人の良さそうな声をすることの多かった金助だが、この時ばかりは棘がある。
「話の流れからすると、つまり、こやつは妖怪覚であって、奥さんに横恋慕しているんじゃな? 覚は危険な妖怪じゃ。奥さんは知らんかもしれぬが、こやつらは人里に忍び込み、人間の女人を攫って無理やり妻にするのじゃよ」
「おいおい、仲間のうちにはそういう奴もいるけどさ、俺はちゃんと紳士的に言い寄ってるじゃねえか」
「人妻に言い寄るのが問題なのじゃ。何かあったら、砂川先生に申し訳が立たぬわ」
「なら、おまえが那子を守ってやれよ。ったく、どいつもこいつも情けねえ奴ばっかりだ」
「とにかく奥さん。覚のことは、信じてはならない」
器用に後ろ足で仁王立ちして、金助が断言する。覚の頬には薄らと不敵な笑みが浮かんでいるが、赤みを帯びた瞳にはどこかひんやりとした陰が走っていた。そのことに気づいた那子の口から、自然と言葉が零れ落ちる。
「でも彼は、私たちのことを助けてくれたのです」
いつも飄々とした表情を崩さなかった覚の眉が、ぴくりと動く。
至極もっともな那子の声に、金助は少し狼狽えた。表情筋がほとんどないため顔は変わらないのだが、人間だったならば、困ったように眉尻でも下げていたかもしれない。
「いいや、しかしのう」
(あなたが覚なのは、生まれつきだもの。ただそういう種類の妖怪だというだけでは、あなたを信用しない理由にはならないわ)
心の中で語りかければ、覚は意外そうに目を見張り、那子の横顔をじっと見つめた。那子は覚の視線には応えず、角が立たないように、軽い調子で金助に言った。
「心配してくださってありがとうございます。でも大丈夫。少なくとも、また無法者に襲われるよりも、知り合いの覚の方がまだ安心ですし」
「うむ、まあ、それもそうだが」
那子はもう一度「大丈夫です」と言い切ってから、金助を抱き上げた。最初と同じく風呂敷の袋状の部分に座ってもらうと、ずっしりとした重みが肩にかかる。
「行きましょう。金助さん、案内をよろしくお願いします」
未だ煮え切らない様子ではあるものの、金助は長い爪の生えた手で進むべき方角を示してくれた。
道ともいえない道に踏み込む那子の隣に覚が並び、少し首を傾けるようにして那子の顔を覗き込んだ。
「おまえ、俺を気味悪がらないんだな」
口元に軽薄な笑みを浮かべている。しかしその瞳の奥に、何か繊細なものが壊れてしまうことを危惧するような、微かな怯えを見たような気がした。那子は無意識に、自分の右腕に刻まれた醜い痣を袖の上から撫でた。
「自分ではどうしようもないことで決めつけられるのはきっと、辛いわよね」
覚は那子の腕を一瞥し、それから口の端をいっそう持ち上げて、普段通りの軽い口調でさらりと言った。
「そういうところ、やっぱり好きだぜ、那子」




