6 はじめてのお使いは危険の色①
金助の嗅覚は、正しかったようだ。
道なき道を進むと、ややもしないうちに、清流が岩を打つ音が那子の鼓膜を揺らし始めた。肌を撫でる風は爽やかに冷え、吸い込む空気も清涼だ。
那子は、渓流の岸に転がる苔むした倒木に腰を下ろし、前に掛けた方の風呂敷を外す。金助を水際に下ろしてから、いささか軽くなった肩をぐるりと回して、大きく息を吐いた。
中身の減った水筒を水に浸し、透き通る山の恵みを汲み取った。続いて、両手を椀にして清流に沈め、掬った水を嚥下する。
心地よい冷たさが喉から胃へと流れ落ち、すっと疲労が浄化されるような心地がした。
「おいしい」
「そうじゃろう。特に上流の水は、山神様の息吹を浴びているからのう。……うむ、少し、すまぬ」
短く断って、金助は渓流に飛び込んだ。けっこうな速さがあるので流されてしまわないかひやりとしたが、どうやら杞憂らしい。金助は器用に手足を動かし、胡粉を散らしたかのように白い飛沫を上げる水を、すいすいと掻いている。
那子は倒木に腰を落ち着け直し、筍の皮に包んであった握り飯を頬張った。ほどよい塩味が、夏の暑さで発汗した身体に滲みる。
はしたないほどの早さで飲み込んでしまいそうになったが、貴重な食料である。考え直し、ゆっくりと味わった。
安らいだ心地で周囲に意識を向ける。水のせせらぎと、小鳥の鳴き交わす多彩な声が、夏の木漏れ日がもたらす熱気を涼やかに中和してくれている。
数え切れないほどの命を抱えた山は賑やかで、那子という人間をありのまま受け止めてくれるような寛容さを漂わせている。
物心ついた頃から、帝都で暮らしていた。だから山には何の縁もないはずだ。それなのに、木々の匂いに囲まれて、清らかな水の躍動を眺めていると、どこか郷愁にも似た感情を覚えるので不思議である。
那子はもう一口水を飲み、ぼんやりと周囲を見回した。
(いったい、どのくらい進んだのかしら)
依頼者妖怪夫婦来訪の翌日、朝霧の残る早朝に出立してしばらく。日はちょうど中天を越えた辺りだ。
道案内は完全に金助に任せているので、自分たちが今どの辺りにいるのか、検討もつかない。
金助は、鉱亀の住処には一晩もあれば行って帰ってこられると言っていた。ならば目的地までは、残り半分ほどの距離だろうか。それにしても金助は、よく迷いもせずに道を選べるものだ。砂川家までは梟に運んでもらったというのなら、道順が頭に入っているということはなさそうなものだが。……そういえば。
「金助さん?」
金助の姿がない。
那子は腰を上げ、渓流に向けて呼びかける。
「金助さん」
もう一度、今度は声を張ってみるのだが、返るのは水が岩に砕かれる音だけだ。妖怪とはいえ、金助は亀だ。久しぶりの水辺に夢中になり、声が耳に入らないのかもしれない。
那子は風呂敷を結び直し、流れの方へと足を向けた。その時だ。
「……て、んだよ……妖怪が」
悪意を帯びた男の声が、那子の鼓膜に微かに届く。耳を澄ませ、音の出所を探った。
「砕けばな。……いい金に」
「暴れるなよ」
一人ではない。複数の男が、川のやや下流側で下卑た調子で会話を交わしている。まさかこのような山奥で人間に出くわすとは。
しかも、明らかに剣呑な気配。身体がひやりと冷え、足がすくむ。
(砕けば、いい金に)
そんな不穏な言葉にぴったりな金ぴかの甲羅が、脳裏に鮮明に蘇る。
(それは、絶対にだめ)
次の息を吸ったと同時、那子は小枝を蹴って、下流へと駆け出していた。
不穏な集団は、すぐに見つかった。男が三人。いずれも二十代から三十代ほどの壮健な男である。身なりは全員似たようなもので、伸びるに任せた髪を無造作に結い、無精髭に覆われた口元をいやらしく歪めている。
その手にむんずと掴まれるのは、金色の塊。背負った黄金の中に、四肢と頭、尾までも引っ込めた金助だ。
いかにもな無頼者に勇気が折れかけた。しかし、後戻りはできない。突然木々の間から飛び出した女に気づいた男らの視線が、那子に突き刺さる。
「ん、女?」
「へえ、何でまた一人で」
「山菜採りでもしてんのかい、お嬢さん」
けらけらと茶化す三人衆だが、その目は笑っていない。金になりそうだと言いながら金助に向けられていた眼差しと、寸分違わぬ下心の滲み出た眼光に、体中が痺れて凍りついた。
彼らの中で一番小柄な男が大股で近づいてくる。拘束されたままの金助が甲羅から首を伸ばして叫んだ。
「奥さん、逃げなさい! わしの甲羅はそう簡単には砕けない」
「うおっ、喋った」
「大正になっても山奥には妖怪がわんさか住んでいるってのは本当なんだな」
男らは侮るような調子で笑い、金助の首を掴もうとする。危ういところで頭を引っ込めた金助は金鉱石の塊のようになり、再び沈黙した。
「き、金助さん」
「お嬢さん、この亀の飼い主か?」
小柄な男が無遠慮に距離を詰める。視線を外せばその隙に飛びかかられてしまいそうで、那子は男を睨んだままじりじりと後退る。しかし。
「あ……」
足裏が小枝を折った拍子に、地面に刺さっていた小石がごろりと外れた。
足を滑らせた那子は、その場で尻もちをつく。脇を転がり川に落水した小石は、白い飛沫に呑まれて下流に消えた。
腰を屈めた男のにやけた顔が、吐息の生ぬるささえ感じられるほど肉薄する。背後の地面に手を突き距離を置こうとすると、男を仰ぎ見るような体勢になる。
「なあ、お嬢さん。あの亀と知り合いってことは、他にもあんな宝石背負った妖怪がいる場所を知っているんだろ。ちょっと教えてくれよ」
「し、らない……」
「あれえ、そうかあ。まあいいか。金の代わりにいいもん見つけたし」
土と垢で爪の黒くなった男の手が、那子の顎を掴む。そのまま指の腹で頬を撫でられて、嫌悪に全身が粟立った。獲物を狙う獣のような男の目が、すっと細まった。那子は咄嗟に後ろ手で地面を探り、こぶし大の石を掴む。
「恨むなら、あの阿呆な亀を……っ!」
活動写真の弁士もかくやの悪党じみた台詞は、頬を襲った那子の横殴りにより途中から吹き飛んだ。
石を握っているので威力は出たのだが、あいにくそもそもの勢いが貧弱だ。男は打たれた辺りを押さえて束の間目を閉じる。やがて衝撃が去ってから、きっ、とまなじりを吊り上げると、目を血走らせて那子の首を掴んだ。
「てめえ」
喉が潰されて、呼吸が奪われる。頭に溜まった血液が下りて行かず、どくどく脈打つ血潮が頭部を内側から圧迫している。
男の仲間たちは少し離れた場所で、はやし立てている。
(まさかこんなところで……誰か……)
喉を締めつける手に爪を立てて抵抗するが、びくともしない。
電球が切れかけるように、世界が明滅している。暗闇が訪れる瞬間、これまでに出会った人々の姿が、まるで都電の車窓から見送るように、さっと過ぎ去った。
伯父たちと暮らしたみさわ亭や古い知人らの走馬灯が、一瞬で駆け抜ける。その終点に浮かぶのは。
――おっかさん!
最後の心残りは、たぬ子ということか。出会ってから、季節はまだ一つも過ぎ去っていない。それなのに、彼女の存在はこうも深く、那子の胸に刻み込まれている。
だがそれは、那子の独りよがり。一方通行の思いに違いない。
何せ那子はただの雇われ妻で、雇われ母だ。那子がこのまま帰らなければ、たぬ子はしばらく悲しむだろう。しかし妖怪の命は長いのだ。自分を置いて去ってしまった母……いいや、子守女中のことなど、たぬ子はすぐに忘れてしまうはず。
(たぬ子さん……)
その時。いよいよ暗黒に沈みかけた世界に浮かぶ、陽炎のようなたぬ子の腰辺りに、濃紺の袂がゆらりと揺れる。ぼう、と闇が凝結し、人の像を結んだ。幻のたぬ子は露景の腕に抱かれていたのだ。
「たぬ、……んな、さま……」
「気にくわねえな」
喉の奥で岩を転がすような、ごろごろとした低い声が那子の鼓膜を擦る。




