5 あなたのことを何も知らない
「そんで、奥さんと砂川先生はいつから?」
背中に肉筆画の束が入った風呂敷を、胸側に握り飯と水筒、金助を入れた風呂敷を掛けた那子は、出発早々慣れない山道に苦戦を強いられていた。
荷物はさほど重たくない。しかし、都会暮らしの長い那子である。木の根の連なりが自然の階段を作ってくれているとはいえ、斜面を上がったり下がったりするのは骨が折れるのだ。
「ほんの、一月ほど、前です。伯母が、結婚広告を、見まして」
「はあ、広告。人間ってのは不思議な生きもんじゃのう。結婚相手など、十年二十年交友関係を広げていけば、そのうち見つかるもんじゃろうに」
その前提だと、人間は皆、幼馴染みと結婚するようになってしまう。
「……金助さんとねずねさんは、いつから、ですか」
「夫婦になってからは、まだ十年くらいかのう。じゃが知り合ったのはずっと前じゃ。ねずねのことは、あれが生まれたばかりの頃から知っておる」
汗だくで息を切らせつつ言った那子に遠慮する様子は欠片もなく、風呂敷の隙間から涼しげな顔を覗かせた金助は、遠い昔を懐古する目をした。
「ねずねはわしの友達の百二十三番目の子でのう。あの時の、毛も生えそろわない桃色の赤ん坊と、まさか夫婦になる日がくるとは思いもしなんだ」
「ひゃくにじゅうさん……」
「旧鼠ってのは、長生きした鼠に妖力が宿って生まれる妖怪でのう、親が旧鼠でも子の全員が妖怪になるとは限らんのじゃ。現に、ねずねの兄弟姉妹の中に旧鼠は半分もおらん。ねずねがわしと同じように妖怪になったのは、まさに運命じゃ。……だけんども、あの砂川先生が奥方をねえ。あんたらにも宿生の縁があったんじゃろうなあ」
ごろ、と大きめの石を踏み、草鞋の底を通して足裏が刺激される。山頂を目指すわけでもなく、山をぐるりと逆側まで抜けるだけなのだが、目的地についた頃には草鞋の底が抜けてしまっているのではないかと不安になるほどの難路だ。
「旦那……砂川とは、長い、付き合いなの、ですか」
「うむ。先生が絵を描き始めた頃からだったかのう」
「絵を」
そういえば砂川露景は、どこで絵を学んだのだろう。先日、たぬ子が攫われてしまった事件の折に出会った覚は「この山で暮らす必要があったから、結局妖怪画家になったんだ」と言っていた。
金助は、甲羅よりも一つ色彩の暗い落陽色の目を動かして那子を見上げた。
「奥さんは先生のこと、どのくらい知っているんで?」
何も知らない。那子は軽く唇を噛み、木の根を踵で蹴って斜面を進む。
結婚広告で知り合った仲なのだから、過去も人柄もこれから知っていくのが当然だ。しかし、これはただの契約に過ぎない。心の深いところに踏み込んで行くのはおこがましい。
理性ではそう自重するのだが、彼の瞳に宿る藍色の陰や、時折見せる人らしい感情の揺らぎの意味を理解したい、と願ってしまう自分に戸惑った。
たとえ契約だったとしても、絆で結ばれた家族というものを切望してしまう。
那子はきっと、砂川露景に恋情を抱いているわけではない。もちろん、許されるのであればいつか、真に愛し合う夫婦になりたいと憧れる。しかしそれは、無理な相談だ。
「砂川は」
彼の過去を訊ねる言葉を吐きかけて、思い直して口を閉じた。他人づてに過去を暴くなど、やはり無作法ではあるまいか。頭の中で、栓なき言葉だけがぐるぐると渦巻いている。いつもの悪い癖である。
「……」
「いいや、そんな難しい顔をして考え込まんでも。まあ、そのうち本人に訊いたらいいさ」
金助はあっけらかんと言い、ひょいと首を伸ばした。
「そろそろ少し休まんか? あの道を行った先から水の匂いがする。日が高くなってきて、暑いじゃろう」
しわしわの長い首が示したのは、何の変哲もない藪だった。踏み込むのも躊躇われるような下草の群れ。しかし那子は、自ら使いをかって出たのである。嫌がってばかりもいられない。那子は山袴を穿いた脚をぐっと伸ばし、意を決して獣道に踏み込んだ。




