4 依頼者夫婦は鼠と亀③
三色の双眸が一斉に那子へと向けられた。少し気圧されて、思わず上体を軽く引く。
やがて、最初に口を開いたのは露景である。
「いいや、君にはたぬ子と一緒にいてやって欲しいのだが」
「たぬ子? 誰だい、それ」
ねずねがちょい、と首を傾けるのを見下ろして、露景はさらりと答えた。
「娘だ」
「へ? 新婚だろ。あんたらいつの間に」
「あ、いいえ、そうではなくて……あれ、たぬ子さんのこと、ご存じなかったですか?」
そうなると、先ほどの家族絵云々や寿命差の話はいったい何だったのだろう。黙り込んで難しい顔をする那子の膝を、ねずねがちょんちょんと叩いた。
「まあ何はともあれ、子どもはあたいが面倒をみるよ。そんで、奥さんと金助さんが一緒に行けばいいだろ」
「ねず、ねさんが?」
鼠が狸を、と言いかけて、寸でのところで呑み込んだ。たぬ子に食われないだろうか……と心配になるが、ねずねはあっけらかんとしている。
「何だい、あたいだって子どもの世話くらいたくさん経験してきたよ。どうせ一晩もすれば奥さんは帰ってくるんだろ。大丈夫大丈夫」
「それはそうなのですが……」
「那子さん」
露景の静かな声に、那子は顔を上げる。
「たぬ子を呼んできてくれるか。まずは会わせてみよう」
面倒を見てもらうのならば、相性が合うかどうかも大事だろう。那子は「はい」と頷いて、部屋を出た。
たぬ子の姿は、すぐに見つかった。例のごとく庭先で虫を突いていたたぬ子は、お絵描きを中断させられた挙げ句、西瓜もお預けとなり、少しご機嫌斜めである。
「たぬ、お腹空いたあ」
「ごめんね。今、西瓜をきんきんに冷やしていますからね。あ、蝶々を食べちゃだめよ。ほら、逃がしてあげて」
「うーん」
那子が砂川家にやってきた頃には、食事の時間など何のその。食べたい時に好きなものを口にするだけだったたぬ子も、今やすっかり人間の生活時間に馴染みつつある。朝昼晩の食事と午後のおやつは欠かせない。
解放された蝶が、心なしかふらつきながら一目散に空へと去って行くのを見届けて、たぬ子を抱き上げる。軽く砂を払ってやってから、客人らが待つ部屋へと向かうと、案の定。
「く、くくくくくま!」
「いいや、妖狸だ」
半人半狸のたぬ子の姿が目に入るや否や、ねずねはびゅん、と駆け出し風呂敷包みの後ろに隠れた。露景の冷静な訂正に「どっちでもいいよ」と切り返し、物陰から上目遣いに那子とたぬ子を警戒する。
「どういうことだい、奥さんは熊、じゃなくて狸だったのか!」
「那子さんは人間だ。たぬ子は私の知人の娘で、事情があって養育を」
「先に言ってくれよ!」
「ねえおっかさん、お腹空いたあ」
「ひいっ」
ぐうう、と小さなお腹が鳴る。たぬ子にそんな意図はないだろうが、捕食者の腹の虫が唸るのを耳にしたねずねは戦慄する。
対してたぬ子は呑気なもので、見慣れない妖怪の姿に興味津々だ。
「だあれ?」
「お父さんの仕事のお客様よ。金助さんとねずねさん」
「ぎゃっ! こっちにくるんじゃない!」
那子が部屋に踏み入ると、ねずねはさらに奥へと逃げて、露景の腰の辺りから顔だけ覗かせた。
状況があまり読めていない様子のたぬ子だが、拒絶されていることはわかるらしい。毛を逆立てたねずねの、警戒心に溢れた視線を浴びて、たぬ子のふさふさの尻尾が突然細くなる。さらにはふえっ、と涙を浮かべた。
「ねず、たぬのこと、嫌い?」
つぶらな瞳が濡れている。うるうると揺れる黒々とした眼差しに、ねずねは良心を打たれたのか、用心深い足取りで露景の陰から日差しの帯の中に這い出した。
「ややっ、ご、ごめんよ。別に嫌いじゃないさ」
「ほんと!」
先ほどまでのしおらしさは、いったいどこへ行ったのか。たぬ子はぴんと耳を立て、まるで跳ねた鞠のように那子の腕から飛び降りねずねに駆け寄った。
「ひゃっ!」
理性は本能に勝てないのだろう。文字通り跳び上がり、いよいよ露景の羽織の下に隠れたねずね。たぬ子はお得意のかくれんぼとでも思ったか、楽しそうに尻尾を振っている。
「ねず、どこー」
娘の奔放さには慣れたもの。露景はたぬ子の腰を両手で掴んで抱き上げると、自身の腿の上に乗せた。
「お客様に失礼だろう」
露景の中に、客に対して失礼という感覚があったのかと意外に感じつつも、那子は妖怪たちに頭を下げる。
「申し訳ございません。娘が」
「ねずね殿、安心して欲しい。この子には人間と同じ食事をさせているから、生の妖怪は食わない」
「あんたも大概失礼だよ」
布の下からくぐもった声がして、ため息を吐きながらねずねが姿を見せた。
鼠と半狸。怖々としつつも近距離で見つめ合う。数秒の沈黙の末、たぬ子が天真爛漫な笑みを浮かべたのにつられて、ねずねも引きつった頬を持ち上げた。
未だぎこちなさが残るものの、この分ならば、一晩くらい那子が留守にしていても、問題ない……かもしれない。少しずれた感覚の持ち主とはいえ、露景も一緒にいるのだし。
そうと決まれば俄然、気持ちが張り切ってくる。何せ、胸を張って砂川家の役に立てる、またとない機会なのだから。
「ではさっそく、私が金助さんのご同族の方々のところに行って、甲羅をもらってきますね」
「ふむ。わしも一緒に行こう。奥さんが一人で行っても、人間が金儲けのために甲羅を盗みにきたと勘違いされて追い返されてしまうかもしれぬからのう」
「鉱亀たちへの謝礼として私の絵を持って行くといい。ちょっと待っていなさい」
露景はたぬ子を抱いたまま部屋を出る。しばらくしてから紙の束を掴んで戻ってきた。
絵を包んでいた油紙が、畳の上で開かれる。那子は思わず感嘆の息を吐いた。
「こんなに立派な絵を……」
いずれも、小ぶりな紙本に描かれた肉筆画である。
煙る朱色の灯籠が幻想的に並ぶのは、踏み込む者もない新雪の白に覆われた神域だ。一枚めくれば、群青の宵闇にぽっかりと空いた満月に、視線がぐっと吸い込まれる。さらにめくると現れたのは、画面いっぱいの緑青色。鮮烈な色合いの孔雀の絵は、羽毛の一本一本が今まさに風になびいているかのように繊細で躍動的だ。
かと思えば、燃えさかる地獄の炎を前に下卑た笑顔を浮かべる鬼のぎょろりと飛び出た眼球や、不遇の末に命を落としたと見える女の虚な目が、紙の外にいる那子たちをじっとり凝視してくる。
妖怪画以外も描いているとは知らなかったが、風景画もなかなかの美麗さだ。とはいえやはり、砂川露景は妖怪画家。彼の筆が生み出す人ならざる者たちには、写実性だけではなく、どこか魂を震わせる力がある。
これほどの絵ならば、亀の甲羅と交換するよりもむしろ、街に下りて画商にでも売って現金を手に入れた方がいいのではなかろうか。もちろん、絵画に値をつけてもらうのは、決して容易なことではないだろう。となれば那子の考えなど、素人らしい脳天気なものだと一蹴されるのかもしれないが。
「足りるだろうか」
「まあ、どうせ生理現象で落ちた甲羅と交換するだけだからのう。ああ、鬼と幽霊はいらんぞ。美しくもないあやかしの絵を見て喜ぶのは人間くらいのものじゃ。家族や美妖怪の姿絵ならまた違うんじゃろうが。ひひひ」
露景は素直に紙の束から妖怪画を引き抜くと、残りの絵を包み直し、畳を滑らせて那子の膝元に差し出した。
「では金助殿、那子さん。頼んだぞ」
かくして翌日、妖怪画家の妻としての初めてのお使いは始まった。




