3 依頼者夫婦は鼠と亀②
「先生、久しぶりだねえ」
「その節はどうも。今回の依頼は、お二人の絵か」
露景は客の前に腰を下ろすなり、世間話もせず本題に切り込んだ。
ねずねと金助は、露景の人柄を把握しているのだろう。特に不快がる様子もなく「そうなんだよ」と身を乗り出す。
「あたし、今が女盛りだろ。いっとう綺麗な姿で絵に残して欲しい。ああ、そんなに凝った絵じゃなくていいんだ。年を取った時にふと眺めて、新婚時代を懐かしみたいだけだから」
「今のお二人は、外見年齢が同じくらいだからな」
(妖怪の見た目の年齢、旦那様にも見分けがつくのね)
ならば、この場においてはただ一人、那子だけが鈍感な目を持つ存在なのだろう。
流れるように始まった商談のせいで退室の機会を逃した那子は、いつ腰を上げようかと足をもぞもぞさせる。妖怪たちは、どんどん話を進めていく。
「構図はね、普通でいいよ。人間たちの間で最近流行ってる夫婦写真? ってやつみたいな感じでお願いしたい。どちらかというと、写実的にして欲しいね。あたいの毛もまだ若くてつやつやだろ。金助さんの甲羅もぎらぎらだし、素材を生かしてね。ちょっとくらい銭がかかってもいいから」
露景は袖の下で腕を組み「ふむ」と唸る。
「ねずね殿の肌には雲母を刷こう。金助殿の甲羅は金か」
「うんと素敵にしてくれよ。前金代わりの謝礼はさっき奥さんに渡したからね」
「あ、こちらです」
那子は、脇に置いた風呂敷包みを示した。身体の小さなねずねと金助が難儀しつつ運んできてくれた品だ。
ちなみに砂川家までの道中は、謝礼の包み共々本人たちも、近所の鳥に運んでもらったらしい。何も知らない者が目撃したならば、猛禽に攫われた哀れな鼠と亀に見えたかもしれない。
「中身は和紙さ。しかも越前の上質なやつ。どうだい、嬉しいだろ」
「ああ、お気遣いありがとう」
「これ、あたいらの絵を描くのに使ってくれよ。で、残ったやつを前金にして欲しいんだ」
「承知した。だが、一つ問題がある」
皆の問うような視線を浴びて、露景は微かに顔を曇らせる。
「岩絵具が足りないのだ」
「では、私が街に下りて買ってきましょうか」
那子が提案するのだが、露景の表情は晴れないままだ。彼の視線の先には大きな風呂敷包み。その目が主張する懸念を察し、那子は「あ」と声を漏らす。
通常ならば、前金で画材を求めることができるはず。しかし今回の謝礼は、紙だという。人間の営む商店で岩絵具を購うにはやはり、お金が必要だ。
そういえば、砂川家の食卓に上がる食材のほとんどは、ご近所妖怪や取引先からの差し入れか、露景が肉筆画と物々交換をして手に入れたものだった。
人間社会の貨幣を手に入れる数少ない機会といえば、新聞挿絵の仕事だが、その報酬は結局画材や日用品に消えるので、おそらくこの家には、現金がほとんどない。
「岩絵具はいつも、自分で作っているのだ」
「え、作れるのですか」
「もちろん、街で買った方が楽ではあるのだが」
那子は目を丸くしつつ、露景の仕事部屋に並んだ画材を思い出す。
岩絵具は、その名の通り、天然の鉱石を砕いて作った顔料である。普段は粉末の状態で瓶に入れて保管して、絵具として使用する時に膠と混ぜ、粘性を持った液体へと変えるのだ。
那子は詳しくないのだが、同じ鉱石から作った絵具でも、粒子の大きさにより色の濃淡が異なっていて、粒が大きければ濃色に、小さければ淡色になるのだいう。
絵を描くだけではなく、そんな繊細な色作りまでやってのける砂川露景という画家に、那子は感心した。このことに限らずだが、まだ年若いはずの露景から時折、どこか老練した空気を感じられて少し不思議だ。
技はもちろん、磨いた年月の分だけ深まるものだ。しかし、筋がいい者の技術が、長年研鑽を積んだ者の努力を追い抜くというのは、ままある話。露景のそれも、天賦の才、というものなのだろうかと思ったが、物静かに山に籠もる露景と天才の二文字が、どうも結びつかないのだった。
「幸い、岩絵具の材料はすぐ揃いそうだ」
「材料?」
露景はこくりと頷いて、金助をじっと見る。凪いだ水面のように寡黙な藍色の瞳が、ちらりと光る。まるで、獲物を狙う猛禽のような眼光だ。
露景が言わんとすることを察した金助は、器用に後ろ足二本で直立して「ひっ」と身を引いた。
「こ、この甲羅ははやらんぞ」
「鉱亀の甲羅は毎年成長して、時がくれば鹿の角のようにぽろりと落ちるものだろう」
「わしの甲羅はまだ落ちたばかりじゃ。次に剥がれるのはおそらく、十年後くらいかのう」
「何だ。もうすぐじゃないか。待とう」
露景が普段通りの抑揚で返す。あまりにもさらりとした言いようなので、本気とも冗談ともつかない。
「けんどなあ、わしには短い十年も、ねずねにとっては長いのじゃ」
「……まあ、そうか」
興味を失ったように、露景の瞳から獰猛な色が抜け落ちた。身の危険が去ったことを覚り、金助が四つ足に戻る。
「ならば、金助殿のご同胞から剥がれ落ちた甲羅を頂戴できまいか」
「わしと同じ色の鉱亀はおらんぞ」
「それでいい。そもそも、鉱石は砕けば色が変わる。金助殿の金色の甲羅を描くならば、金箔を使った方がいい。だから必要なのは、背景や小道具を描くための色だ」
「え、そうなのですか」
思わず声を漏らした那子に、露景は頷く。
「真っ黒な鉱石でも、砕いて岩絵具にすると赤くなるものもある。とにかく、何色といわず幅広い種類の石があるとありがたいのだが」
「うむ、まあ、落ちた甲羅は住処の洞窟に山積みになっておるから、交渉次第で分けてもらえるとは思うのじゃが……一つ問題がある。一族は最近、山の向こう側に引っ越したのじゃ。だからこの家からはちょいと遠くなってしまってのう」
金助は尖った爪の生えた手で、お茶の入った醤油皿を思案げに叩いた。
「わしやねずねの足じゃあ、行って戻ってくるだけで難儀する。それに、たくさんの甲羅を運ぶのは、わしらにとっては重労働じゃ」
「そんな遠くに住んでいるのなら、どうやってここまできたのだ」
「梟に運んでもらったのじゃ」
「では、またそうすればいい」
「あたいは嫌だよ!」
間髪を入れず、ねずねが半分悲鳴のような声を上げた。
「あの密集した羽毛、鋭い爪、生臭い嘴! 何匹の鼠があれの餌食になってきたかと思うと、もう……あばばば……とにかく、二度と嫌!」
ねずねは、ぶるりと全身を震わせる。鳥と鼠の捕食関係を思えば、彼女の嫌悪感も想像に難くない。しかし露景は相変わらずどこかずれている。
「だが、食いはしないと約しているのだろう?」
「まあそりゃそうなんだが……ああもう、アナモリにはか弱い旧鼠の気持ちなんざわかりゃしないもんね!」
ちゅうちゅうと鼻息を荒げるねずねと、軽く首を傾ける露景の顔を代わる代わる見て、金助が「まあまあ」と間に入る。
「どちらにしても、話のわかる梟などそうそうおらぬから、帰りは歩くしかない。だから、もしわしの同胞のところへ行くのなら、先生ご自身でお願いしたい。何、その長い脚なら一晩あれば行き来できるじゃろ」
「しかし、私は彼らに嫌われているようなのだ」
「うむ?」
「私と距離を置きたがる山の住人は多いだろう」
「まあそりゃ、複雑なお立場だからねえ」
妖怪夫婦も露景自身も何やら神妙な顔で唸っている。またしても那子だけ置いてきぼりだ。
何もわからない自分に嫌気が差す。とはいえ、ここで質問を挟んで話の腰を折るのも気が引ける。
黙ったまま、何か妙案はないかと思案して、はっと気づいた。人間の足ということならば、那子だって人並みのものを持っている。何だ、簡単なことではないか。
「あの、もしよろしければ私が行きましょうか」




