2 依頼者夫婦は鼠と亀①
「お待たせしており、すみません。砂川は、身支度を整えたら参りますので」
「いやいや、どうもご丁寧に」
座布団の上にぽつんと座る、ねずねと金助。それぞれ、旧鼠と鉱亀という種族らしい。いずれも、鼠と亀が大いに年を取り、次第に妖力を得て、妖怪となった存在である。
妖怪をもてなした経験などないのだが、ひとまず茶を出してみた。鼠にはお猪口、亀には醤油皿。それぞれを湯飲み代わりにして茶を淹れると、彼らは当然のようにすすってくれる。どうやら無作法はなかったようでほっとする。
事情を聞けば、彼らは夫婦であり、妖怪画家の砂川露景に、二人が仲睦まじく寄り添う姿を描いてもらうため、遥々山の裏側から訪ねてきてくれたのだとか。
「あたいの方がずっと早く死んでしまうから、今この瞬間の記録を残したかったの。妖怪の姿絵を描いてくれる人なんて、砂川先生くらいだからさ」
「おいおい、ねずね。早く死ぬだなんて、そんな悲しいことは言わないでおくれ」
「だって金助さん。本当のことじゃないか」
動物の鼠と亀に寿命差があるのと同様に、旧鼠と鉱亀も生きる早さが異なるそうだ。共に若くて元気な今この時を切り取って、手元に置きたいという気持ちはよくわかる。しかしそれならば、と那子は思う。
「写真ではだめなのですか?」
露景に仕事の依頼があるのはありがたいのだが、二人の願いを手っ取り早く叶えようとするならば、写真に収めるのが最も適しているのではなかろうか。そんな純粋な疑問が口を衝いて出た。
ねずねと金助はぱちぱちと瞬きをする。
「あらあら」
ひとしきり瞼を動かした後、まじまじと那子を見上げるねずね。それから、納得した顔で「ああ」と大きく頷いた。
「あんたは人間なのね」
「え、はい……」
妖怪画家の妻ならば、その正体は妖怪だとでも思っていたのだろうか。
「じゃあ知らないのも仕方ないねえ。妖怪はね、写真に写らないのさ」
「え、そう、なのですか」
想定外の事情に、間の抜けた言葉しか出てこない。
生まれてこの方二十三年間。妖怪が写真に写るかどうかなど、考えてみたことすらなかった。何せ、物心ついて以降、近代化が進む帝都から出たことのない那子は、この山にやってくるまで、妖怪に出会ったことがなかったのだから。
(まだまだ知らないことばかり。たぬ子さんの母になるのなら、妖怪のことをもっと学ばないと)
ひっそりと拳を握る。そんな那子の様子に何を思ったのか、金助が柔らかな声音で言った。
「じゃ、これも知らんかね? 妖怪には長命な者もいれば短命な者もいる。たとえ同じ種族だったとしても、生まれ持った妖力によって寿命に差があるもんだよ」
「同じ種族でも、ですか」
ねずねが「うん」と続きを引き取った。
「あたい、旧鼠の中でも長命みたいで、幼友達も家族も皆、もうとっくに死んじゃった」
「それは……お気持ちお察しします」
「まあ、でも、あんたらも他人事じゃないもんね。これは、異種家族の先輩としての助言だけど、あんたらも今日この時を大事に過ごすといいよ。どうしても、妖怪よりも人間の方が早く老いるんだし」
ということは、たぬ子の成長は人間の子よりも遅いのだろうか。もしそうならば、たぬ子が独り立ちするよりも前に、那子も露景も年老いて死んでしまうのでは。ざらりとした不安が過り、那子は思わず胸を押さえた。
「妖狸も長生きなのでしょうか」
「え、妖狸?」
ねずねが、身体の大きさに見合った高い声で復唱し、首を傾ける。
「妖狸。ううん、そうねえ。人間よりはまあ長いだろうけど、よく知らないな。まあ、鉱亀ほどじゃないでしょ」
「鉱亀はそんなに長寿なのですね」
「同胞のうち妖力が強い者は、万年生きるというからのう」
「じゃあ、金助さんも」
「うむ。千を越えてからは年を数えるのを止めてしもうたが、まあ後半分くらいは寿命が残っているだろう」
「そんで、あたいら旧鼠の寿命は普通は百年くらいかね」
「それでも人間よりは長生きですね」
妖怪も、人や獣と同じように息をする。食事をとって野山に遊び、子どもから大人へと成長していく。ならば当然、命は有限なのだろう。
しかし那子はこれまで、妖怪の命の長さに思いを馳せたことなどない。
寿命のことだけではない。彼らが何を考え、どのような社会を築き暮らしているのか、わからない。これからたぬ子を養育するのならば、妖怪世界の常識をもっと知らねばならない。
「世の中には三千年も土の中で過ごして、三千一年目にやっと空を飛ぶような妖怪もいるからのう」
「目が回りそうなお話ですね」
まるで、時の流れの壮大な蝉のような妖怪だ。
興味津々といった様子の那子に、妖怪二人は親切に話を広げてくれる。
「わしら鉱亀も軽く千年以上生きるとはいえ、八咫烏とか龍とか、人間が神と呼ぶような妖怪に比べれば短命なんだがなあ」
金助の口から出てくる年月の途方もなさに、どうも実感が伴わない。思わず「そうですか」と中身のない相槌が漏れてしまう。
ねずねは小さな桃色の両手でお猪口の縁を掴み、顔を突っ込んで茶を飲むと、つぶらな瞳で那子を見上げた。
「じゃあさ、あんたら家族も絵を残したらどうだい?」
「絵」
突然の提案に、那子は瞬きを繰り返す。
たぬ子がゆっくりと大人になるならば、那子や露景がこの世を去ってからも彼女の人生……いいや、狸生はまだまだ続いていくだろう。いつか幼少期を懐かしみ、そっと思い出に浸るような日がくるのかもしれない。
露景が、たぬ子の実父母を描き出したように、那子たちの姿も家族絵として残せたら。それは、とても温かな思い出になるだろう。
しかし那子たちは、かりそめの家族。情でも必然ですらもなく、契約で結ばれた赤の他人に過ぎない。
温かく穏やかな幸せに彩られたように見える日々も、所詮は契約の終了と共に呆気なく終わるもの。どうせいつか消えゆくならば、感傷を煽るような思い出の品は不要である。
「私たちはいいのです」
ねずねが軽く首を傾ける。
「何だ何だ。照れちゃってんのかい」
「いいえ、そういうわけでは」
「じゃあ、砂川先生に遠慮している? 大丈夫だよ、忙しそうに見えても、あの人は時間を持て余しているんだから」
画業で生計を立てている雇い主に向けて私的な描画を頼むなど、身の程知らずも甚だしい。しかし那子が反応に困るのは、遠慮が最たる原因というわけではないのである。
「あのねえ、後悔してからじゃ遅いんだよ。何たって、今日が一番若いんだから」
「まあねずね、人様の家のことじゃ」
木像のように黙りこくってしまった那子を見かね、金助が助け船を出してくれる。ねずねはきいっ、と牙を剥いた。
「あんたは長生きで、いつまで経ってもぴちぴちだからいいけどね!」
(ぴちぴち)
思わず、鉱亀の喉元の皺に目が吸い寄せられた。結構なしわしわだ。亀の年齢を外見から判断するのは、那子にとっては困難なことだった。
「まあ、最近は砂川先生も忙しかろう。画業だけじゃなく、あれもあるし」
「ああ、本業さね」
「本業?」
金助の首から、意識して視線を外す。
「ほら、アナモリの……」
ねずねが当然のように言った時だった。
「待たせた」
ぎしりと廊下が鳴る。長着に夏物の羽織を引っかけた露景が、やっと現れたのだ。




