1 英才教育というものかしら
「おっとさん、これね、だんご虫さん。それとこれがね、でんでん虫さん」
りりりん、と涼やかな風鈴の音が響く。
砂川露景の仕事部屋。障子戸は開け放たれて、盛夏の強烈な陽光が、室内に金色の帯を投げ込んでいる。
空の絵皿が積み重なり、瓶入り岩絵具の粉末がきらきらと光を弾く正面で、半狸姿をしたたぬ子が筆を握って畳にへばりついていた。
「でんでん、ぐるぐる……」
少し動くのも億劫になるほどの気温である。たぬ子の額には汗が浮き、茶褐色の前髪がしっとりと濡れている。
うだるような熱気の中、いったい何をしているのかといえば、お絵画きだ。それを見守るのは少々名の知れた妖怪画家、砂川露景。時折、露景自身も筆をとり、お手本らしき線をさらさらと書き加えていく。
「たぬ子のでんでん虫には愛嬌がある。そこで、ここをこうすると……」
「おおー」
「それと、でんでん虫は宙には浮かない。彼らはいつも、どこにいる?」
「うーんと、葉っぱ!」
「ならばここに葉を描いてみなさい」
「もっさもっさ!」
午後の休憩に西瓜でもどうかと思い様子を見にきた那子は、廊下と部屋の入り口辺りで覗き見をしながら、相好を崩した。
(英才教育、というものかしら)
などと考えてから、いいや、多分違うだろうと首を振る。二人ともただ、楽しんでいるだけである。
たぬ子を見守る露景の瞳は柔らかい。父と遊べて大興奮のたぬ子は、尻尾をばたばたさせて上機嫌。微笑ましい光景に、家族の団らんを見た心地がする。まるで水に浸された色筆の先から彩りがじわりと広がるように、確かな温かさが那子の胸を満たしていく。
(雇われでも、血がつながっていなくても、いつかきっと本当の家族に……)
「おっとさん、でんでんあげる! あーん」
「私はでんでん虫は食べないのだ」
ややずれている感が否めないが、まあそれもいい。
那子はふっと笑みを深め、室内に声をかけた。
「旦那様、たぬ子さん。おやつにしませんか? 新聞社の方がくださった西瓜があるのですが」
「すいかっ!」
ぱっと顔を上げたたぬ子の隣で、露景が意外そうに眉を上げた。
「新聞……東東日報か。いつきたのだ」
「今朝です。旦那様が川に写生に行かれて、ちょうどご不在だった時間帯に。またきますとおっしゃっていましたよ」
東東日報は、露景によく、妖怪絵の注文をくれる新聞社だ。懇意にしていることもあり、時々差し入れが届くのである。
「東東日報の青木さん、転勤されるのですって。後任の方はまだ決まっていないそうで……」
その時、那子の言葉に被さるように「ごめんくださーい」と蚊の鳴くような声がした。幻聴か、と思い再び口を開きかける。しかしどうやら、声の主は実在するらしい。
「ごめんくださーい。……ほら、あんたも声を張ってくれよう」
「うむ。おおい、砂川先生」
那子と露景は目を丸くして顔を見合わせた。
「まさか、東東日報?」
「いいや、今日の今日でそれはないだろう」
「それもそうですね」
「ねえ、おっかさん、西瓜……」
「ちょっと待っていてね」
汗だくのたぬ子のつぶらな瞳に後ろ髪を引かれつつ、那子はばたばたと玄関へ向かった。
「はい、どなた様でしょう」
玄関戸を開いたのだが、誰もいない。あるのはただ、竹垣の向こう側に広がる緑の森と、目に染みるほど鮮やかな蒼天である。
「あれ、やっぱり気のせい」
「おおい、ここだよ。こっちこっち!」
踵を返しかけた那子の足元から、ささやかな大きさの声がせり上がる。那子は耳を疑いながら視線を下ろし、目に映ったものに「ひっ」と息を呑んだ。
「ふ、風呂敷包みの妖怪!」
「違うって。あたいたちが風呂敷を持ち上げてんの!」
那子のつま先辺りで、四角い何かを包んだ縹色の風呂敷が、ひょこひょこと揺れている。しかもそれは、地面から拳二つ分ほど浮いているではないか。よもや怪異かと腰を抜かしかけた時。荷物の下から、ひょいと現れた顔に、那子はほっと胸を撫で下ろした。
「あ、鼠さんと、亀さん?」
そう。風呂敷包を担ぐように持ち上げているのは、先ほどからちいちい声を上げている白い鼠と、金色の甲羅を背負った眩い亀だった。鼠は人間の拳程度、亀は那子の顔面くらいの大きさである。
それはそれで珍事だが、浮遊する風呂敷の怪奇は生き物の仕業だったと知り、いくらか気持ちが落ち着いた。たぬ子との同居のおかげで、不思議現象に耐性がついてきたのかもしれない。
那子は目を瞬かせ軽い眩暈を振り切ってから、戸惑いながらも会釈する。
「失礼いたしました。お客様でしょうか」
「ああ、あたいら、ねずねと」
「金助じゃ。今日は、砂川先生に依頼がしたくてやってきたのじゃよ」
「ああ、それは。こんなに暑い日にご足労いただいて」
砂川露景の依頼人ということは、彼らも絵を注文するのだろうか。
ひとまず那子は、その場にしゃがみ、重たげな風呂敷を持ち上げた。ずっしりとした重量がある。たわみ方から推測するに中身は、書籍か雑誌か、とにかく紙の束らしい。
「で、人間の娘さん、あんた、誰だい? この前きた時にはいなかったけど」
「あ、私は……」
(雇われた母?)
それはさすがに意味不明だろう。思い直して名を名乗る。
「那子、です」
「ふうん? 砂川先生のいい人?」
「あ、その」
ねずねが、にやりと口の端を持ち上げた。人間じみた表情に、ぶわっと頬が熱を持つ。
雇われとはいえ、対外的には一応妻なのだから、否定するのもおかしいか。しどろもどろになる那子を見上げ、亀の金助が、かぱりと口を開く。
「ほほう、初々しいのう。砂川露景も隅に置けんわい」
「砂川先生、やっとまともな暮らしをする気になったんだね」
気心知れたような口調である。那子は軽く首を傾けた。
「失礼ですが、旦那さ……砂川とは以前からのお知り合いで?」
「うん、まあ、時々絵を描いてもらっていてさ。あ、その包みは謝礼だよ」
「そうでしたか。それはご丁寧に。さあ、どうぞ、中へ」
那子に促され、ねずねと金助は、案外軽快な足取りで沓脱石に這い上がり、式台を経て上がり框に飛び乗ると、那子の案内で廊下を進む。
(ど、どうしよう。妖怪のお客様なんてどうやってもてなせば)
再びくらくらと目が回る。那子はひとまず二人を客間に通してから、露景の仕事部屋に飛び込んだ。
「旦那様、ご依頼人でした! ねずねさんと、金助さんとおっしゃる……」
再びたぬ子と筆を握っていた露景は、軽く眉を上げ「ああ」と大きく頷いた。
「あの夫婦か」
「じょ、常連さんなのですか?」
「まあそんなものだよ」
露景は重たそうに腰を上げ、色の染みた筆をたぬ子に渡す。
「たぬ子、お片づけの時間だ」
「ええー。もっとお絵描きしたい」
「ずっと書いていると、目が紙にくっついてしまうぞ」
「! たぬ、お片づけする!」
ぴょこん、とたぬ子の頭から茶色い耳が飛び出した。露景は娘の頭を軽く撫で、さらりと告げる。
「すまない那子さん。少ししたら向かうから、それまで客人の相手を頼む」
「あ、その」
「たぬ、お水汲みに行く!」
引き留める隙すらない。縁側から飛び降りたたぬ子の後を追い、露景も庭の井戸へと向かってしまう。
ぽかん、と二つの背中を見送って、那子は乾ききらない冷や汗でびっしょりになりながら、客間へと戻ることとなったのである。




