16 その面影を忘れぬように、妖怪画家は彼女を描く
「ううーん、だんご虫……」
空気が一瞬凍りつく。場違いな声が発せられたのは、那子の腕の中。言わずもがな、たぬ子の寝言である。
那子と露景は顔を見合わせ、たぬ子を起こしてしまわないよう、頬の裏を噛んで笑いを噛み殺す。
しばらくしてから、露景は少し背筋を伸ばした。
「とにかく、那子さんにはこれからもたぬ子の母であってもらいたい。この子がこうも人に懐くとは、正直意外なのだ。たぬ子は無邪気そうに見えて、実は人見知りなところがある。私に慣れるまでにも時間がかかったほどだ。これまでも何人か子守女中を雇ったが、どうも気が立ってしまうようで、夜もなかなか眠らなかった。それが、これほど無防備な寝顔を見せてくれるようになるとは、思わなかった」
「そうなのですか?」
まるで別の子の話のようだ。何せ、たぬ子は初日から、那子の隣でぐっすり眠っていたのだから。
何か好かれることをしただろうか、と記憶の箱を揺すったが、答えにたどりつくよりも前に、露景の言葉に意識が向いた。
「実は、家を不在にしている間、たぬ子の母親の姉に会いに行っていた」
「たぬ子さんには、伯母様がいらっしゃるのですね」
「ああ。この子の母親が亡くなったと知った時、彼女に引き取ってもらうことも考えたのだが、足が弱いひとだから、子どもを育てるのは難しいと言われてしまった」
ただでさえ、活発な子なのだから、不自由な身体でたぬ子の世話をするのは困難だろう。
「会いに行ったのは、あの絵……たぬ子の母親の絵を完成させるためだ」
露景は軽く顎を上げ、那子の背後にある文机を示す。絵を描くための絹本を保護するように、和紙が重なっている。露景は腰を上げ、割れやすい物を扱うような手つきで絹本を広げた。
砂川家を訪れた初日の晩、意図せず盗み見てしまった、儚げな女性の絵である。
先日はまだ薄墨の下絵であったのだが、今や繊細かつ大胆な彩色が施されている。
一面に、目に鮮やかな彼岸花。その真ん中に、女性が一人佇んでいる。
露草色の着物の裾がが軽くはだけて、黒くてふっくらとした狸の尾が覗いている。
こちらに背を向け肩越しに見返る構図のため画面の外からは見えないが、腕に何かを抱いているらしい。優しげで幸福そうな眼差しが、彼女の腕の中にあるのはとても大切な存在なのだと告げている。おそらく、たぬ子だろう。
先日、書き損じ紙の中から那子を見上げていた女性の瞳は、慈母のように柔和であった。しかし今、目の前にある姿絵からは、柔らかながらも凜とした芯を感じる。
ことあるごとに虫を捕まえて来たり、遊びが高じて攫われてしまったりするたぬ子。その母親ならば、優しさだけではなく、無邪気な強さを併せ持っていたに違いない。
露景は在りし日の彼女の姿を、その筆づかいで蘇らせたのだ。
「この絵を完成させようにも、彼女についての記憶が薄れ過ぎていた。だからその姉に会い、姿を見て言葉を交わすことで、息をしていた頃の彼女を思い出そうとした」
露景が目を細める。遠くへ過ぎ去ってしまった幸福な日々を思い浮かべているのだろう。
「これは、たぬ子のために描いた。あの子が大
人になった時にはきっと、両親の記憶などおぼろげになってしまうだろうから、いつでも思い出せるように、絵として残したかったのだ。……実は父親の絵も描こうとして、下絵もできている」
「父親」
自画像、ということなのだろうか。
「これだ」
無造作に積み重なっていた紙の中から、下絵が引っ張り出された。那子は手渡された紙面に目を落とす。そして。
(え、誰?)
声が出るのは辛うじて堪えたものの、戸惑いを禁じ得ない。
何せ、薄墨で描かれていた着流し姿の男性は、着衣でもそうとわかるほど腹の張った中年であったのだ。丸い顔にはほんの僅かな棘もなく、誰からも好かれるだろう愛嬌がある。
こちらも、たぬ子の母親ほどではないにせよ、臨場感のある絵であった。だが、本人とは似ても似つかない。
軽く目を上げれば、露景が感想を待ちじっとこちらを見つめている。那子はやっとのことで、口を開いた。
「旦那様、もしかすると以前は少しふくよかだったのですか?」
「うん?」
露景の眉間に、少し皺が寄る。不快、というよりは怪訝といった様子である。
束の間、沈黙が訪れる。
たぬ子の健やかな寝息の合間に、低いいびきが微かに紛れる音が、妙に大きく耳に響いた。やがて、何かに思い至ったらしい露景が、口元をもごもごと蠢かせた。
「……君は……」
「?」
「いいや」
露景は軽く咳払いをしてから、いつもの通り淡々とした口調で、衝撃的なことを言った。
「たぬ子の父親は、母親よりも先に亡くなっているのだ」
理解が追いつかない。露景は、たたみかけるように続ける。
「君は何か勘違いをしているようだが、私はたぬ子の養い親であって、実父ではないよ。だから、この子の本当の名前を知らないし、引き取ったばかりの時には、なかなか心を開いてもらえず、手を噛まれたこともある」
ほらここ、と示された指のつけ根には、なるほど、小さな噛み痕がくぼみを作っている。形状から推測するに、獣姿のたぬ子の仕業のようだ。
「だからたぬ子の父親の絵もしっかりと残してやりたいのだが……」
「あ、あの!」
那子は思わず口を挟んだ。
「申し訳ないのですが、少し頭が混乱していて。つまり、旦那様とたぬ子さんには血の繋がりはないのですか」
「そうだが」
「親戚でもないのですよね。でしたら、たぬ子さんを育てているのは、いったいどういう経緯で」
露景の頬が軽く強ばった。その途端、拒絶の気配が全身から溢れるようで、踏み込みすぎてしまっただろうかと、いつもの気弱さがむくりと鎌首をもたげた。
「たぬ子の母とは、以前からの知り合いだった。それが、事故で命を落としてしまったのだ。私の……不注意のせいでもある」
絞り出すように続いた言葉の重たさに、那子は胸をぎゅっと握られたような気持ちになる。喉が詰まって声が出ない。
それ以上の追及を拒むように、露景は紙を文机に戻した。
「とにかく、たぬ子のことは幸せにしてやらなければならないのだ。しかし私には、あの子を心に血の通ったまっとうな大人に育ててやることができそうにない。だから、那子さん。君に頼みたい」
なぜそこまで頑なに、たぬ子の養育に自信が持てないのだろう。おそらく事情があるのだろうが、露景を慕っている様子のたぬ子は、養父の葛藤など、ほんの僅かたりとも気にしてはいないはずだ。
「精一杯努めます。でも、たぬ子さんは旦那様のことを慕っているようです。ですから、もしよろしければ、その……一緒に育ててくださいませんか? たぬ子さんもその方が嬉しいと思います」
露景の目が、軽く見開かれた。まるで想定外のことを耳にした、というような顔だった。やがて驚きが吹き去ると、戸惑いがちな声が返ってくる。
「私が、一緒に?」
「もちろんです。だって、旦那様はたぬ子さんのおっとさんではないですか」
虚を衝かれたように口を閉ざしてから、露景は少し狼狽え始めた。
「いいや、しかし、私のように人と関わり合いにならない隠者など、子どもの教育にはよろしくないし、何よりも、規則正しい寝食を教え諭すこともできず」
不摂生をしている自覚はあったのかと知り、思わずぶぶっ、と噴き出しかけてしまう。いやいや、さすがに失礼だ。那子は取り繕って、話を戻す。
「旦那様、それならまずは、たぬ子さんに何も告げずに留守にはしないでくださいませ。次回お出かけになる時には、お帰りの目処だけでも教えてください。たぬ子さんが寂しがりますし、私も心配ですから」
「心配? 大袈裟な」
「今回だって、五日間も不在にされたのですよ」
「五日間など、大したことでは……」
露景は悪びれず、さも当然といった様子で首を傾けた後、腕を組み何やら考え込んでから呟いた。
「ああ、まあそうか。しかし、私を心配する人間など初めて会った」
「心配するに決まっています。雇われですが、私は一応」
妻ですから、と言いかけて、さすがに図々しいだろうと思い止まる。しかしそれは杞憂であった。
露景の低くまろやかな声が、那子の欲しかったものを愛おしいほど綺麗な形にしてくれた。
「家族、か」
まるで、心が繋がったかのように思え、藍色を帯びた穏やかな瞳を見つめる。視線を受け止める露景の眼差しが、どこか温かい。那子はたぬ子の柔らかな身体を抱きしめながら、微笑みを返した。
「はい、家族です」
妖怪画家と雇われ妻、そして狸。
奇妙な絆を結んだ三人は、歪ながらも家族としての一歩を踏み出した。
第一話
その面影を忘れぬように、妖怪画家は彼女を描く 終




