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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第一話 その面影を忘れぬように、妖怪画家は彼女を描く

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15 去りたいならば、引き留めはしない②

「よく聞きなさい、たぬ子。最初のおっかさんは、事故で死んだのだ。決して、たぬ子を手放したわけではない。むしろ彼女は、最期までたぬ子を抱きしめて守っていた。何よりもおまえのことが大切だったのだ。それだけは疑わないでやってくれ」


 詳しい事情はわからない。しかし、絞り出された声の切なさに、胸をしめつけられた。


 場違いながらふと、山の事故で命を落としたという那子(なこ)の実父母のことが脳裏を過る。


 彼らの身を襲った悲劇の経緯や理由を、今や誰も把握していない。だが、湖畔で泣いていた那子の着物には、親類が暮らす小料理屋みさわ亭の名刺が挟んであったという。


 両親は死の間際、那子が縁者の元にたどり着くようにと望み、必死の思いで名刺に縋ったに違いない。


「じゃあ、たぬのおっかさんはもういないの? たぬ、ひとりぼっちなの?」

「違うわ」


 那子は明瞭な口調で言った。


「あなたを産んでくれたお母さんはもういない。でも、ひとりぼっちではないの。お父さんもいるし、私もいるでしょう?」


 ずび、とたぬ子が洟をすする。


 ことあるごとに虫を拾い、かくれんぼをしては変化を駆使して高度な遊びに変換してしまう、天真爛漫な娘。その小さな胸の奥に暗く巣食った孤独と深い傷を目の当たりにし、言い様のない愛おしさが去来した。


 たぬ子は、那子を必要としている。たとえ、雇われただけの母親であったとしても、彼女の小さな手は那子をしかと掴んで離さない。


 不相応かもしれない。那子の他に適任はいるのだろう。しかし、那子が家族の団らんを切望したように、たぬ子もきっと、庇護者の愛を求めている。ならばこの手を握り返さない理由はない。


「今は、私がたぬ子さんのおっかさんだから」

「……でも、どっか行っちゃうの?」

「そ、それは」


 痛いところを突かれた。しどろもどろになりかけて、顔を上げる。露景の静かな目と視線が重なった。


 那子は小さく拳を握り腹の奥に力を込めて、露景に向き直る。たぬ子を抱きしめる腕を解き、三つ指を突いて頭を下げた。


「旦那様。ふつつか者ですが、どうか、もう少しここにいさせてください」

「……別に、出て行けとは言っていない」


 露景は袖の中で腕を組み短く答えてから、半身をずらして部屋の奥へと戻って行った。もう話は終わり、ということだろうか。そう理解して暗くなりかけた那子を振り返り、露景が軽く首を傾けた。


「来ないのか」


 発言の意図が咀嚼できず、廊下に半ばへばりついたまま硬直する。無邪気なたぬ子が眼前を駆け抜けて、室内に飛び込んだ。その拍子に狸の尻尾に鼻先を軽く叩かれて、那子は我に返り上体を起こす。


 たぬ子が、座布団に胡座をかいた露景の腿に飛び乗って、腹の辺りにぐりぐりと顔を擦りつけている。露景は娘の髪を撫でながら、那子を見た。目顔で、室内に並んだ座布団を示される。この段階になり、やっと那子は理解した。露景は素っ気ない壁を一つ取り払い、那子を側に招いてくれている。


 胸に、じんと熱が沁み渡る。那子は膝を滑らせて露景の正面に座った。


 とはいえ、何を話そうか。解雇を話題にしていた二人の間には、先ほどまで、やや険悪な空気が流れていたのだ。微妙なわだかまりを察したのだろうか、たぬ子は露景の膝から下りて、那子の前にやって来る。


「どうしたの?」

「ふへへ」


 上機嫌に笑ったたぬ子は、那子の杏子色の袖の中に遠慮なく腕を突っ込み、容赦なく引く。されるがまま膝立ちになると、たぬ子は再び露景のところへ戻り、彼の濃紺の左袖を引っ張った。


 たぬ子の両手には、それぞれ那子と露景の腕がある。


「喧嘩はだめ。仲直りするの」


 いささか乱暴に、杏子色と濃紺、それぞれの袖の下から伸びる二人の手が、突き合わされる。


「た、たぬ子さん……」


 困惑する那子だが、露景は「ああ」と意図を察して指を開いた。そのまま、躊躇いもなく那子の手を掴んで軽く振る。


 筆を握らない方の手なので筆肉刺(まめ)があるわけではないのだろうが、硬くて大きな手のひらだった。同じ人間同士なのに、那子よりも少し体温が高く感じられる。突然の温もりを意識すれば、気が動転して、火が出るほど全身が熱くなる。


 触れ合いは、ほんの一瞬のことだった。たぬ子が満足そうにしたのを見届けて、露景は呆気なく手を離す。その顔には、一点の動揺も見えない。まあ、初心な少年でもあるまいし当たり前か。むしろ。


(慌て過ぎよ、那子! ただの握手じゃないの)


 半分目を回しながらもそうと悟られないように、那子はたぬ子を抱き寄せた。


「わあ、おっかさん温かい」


 赤面を誤魔化すように、幼子の頭頂に頬を寄せる。上目遣いにさりげなく顔色を窺うと、露景は微かに口元を緩めていた。愛おしい子どもを見つめる慈しみに満ちた表情に、なぜか鼓動がいっそう高まった。


「たぬ子、よかったな」

「うん……ふわあっ」


 腕の中の小さな身体が、軽く膨らんだ。暴れて疲れたのだろうか、眠気をもよおしたらしい。大あくびの後、たぬ子は那子の胸にもたれかかるようにして、瞼を閉じた。やがて、規則正しい寝息が繰り返された。


「寝たり起きたり、何とも慌ただしい子だ」

「ええ、本当に。でも、子どもは元気が一番です」

「少し元気過ぎるくらいだが」


 二人はどちらからともなく微笑みを交わす。ぎすぎすとした空気は棘を落とし、今はただ、庭から吹き込む穏やかな微風が、三人を包んでいる。


 那子の口から自然と、素直な言葉が零れた。


「旦那様、先ほどは申し訳ございませんでした。私の悪い癖なのです。些細なことでも、頭の中でぐるぐると考えてしまって、だいたいいつも、後ろ向きなことばかりが口を衝いて出て」

「いいや、私も素直ではなかった」


 露景は首を振る。


「ただ、自分は不適だと言い募る君を見て、私のような甲斐性なしの元にいるのが嫌になったのだろうと思ったのだ」

「そのようなことはありません」

「だが、こんなわけのわからない男の妻扱いされるなど、不本意だろう」


 苦々しい自嘲が、口元に浮かんでいる。那子は、ふと思い至った。


「もしかして」

(それが理由で、妻はいらないしこれは期限つきの関係だ、なんて言ったの?)


 それが真実ならば、何と不器用な人なのだろう。


「そのようなこと、ありません。だって私は」


 深く考えるより前に、大胆な発言が飛び出しかけた、その時だ。

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