14 去りたいならば、引き留めはしない①
離れの一室に帰った那子は、押し入れから子ども用の布団を引っ張り出して、たぬ子を横たえた。たいそう疲れているらしく、物音にも身体の揺れにも、小さく唸るだけで目を開くことはない。
やがて、遠くで玄関の引き戸が滑る音が響いた。露景が戻って来たらしい。それきり気配がしなくなったので、どうやら彼は、那子たちの元を訪れるつもりはないようだ。先ほどの来客のことも、説明する気はないのだろう。
まだ子どもであるたぬ子に対してはともかくとして、雇われ妻である那子にもどこか壁を作り、自己開示どころか状況の説明すらしようとしない露景に、寂しさが込み上げる。
だが、そもそも那子は、たぬ子の母親代わりとして、今のところ何一つ上手く振る舞えていないのだ。にもかかわらず、信頼して欲しいだとか、心を開いて欲しいなどという望みを抱くのは不相応。むしろ、このまま雇われ妻を続けていてもいいのかさえも疑わしい。
どうせ帰る場所などないのだし、建前とはいえせっかく『家族』という存在を手に入れたのだ。ならばうじうじと思い悩まず目の前のことに尽力すればいいだけだ。頭ではそうわかっているのだが、心と身体がついていかない。那子は自身の陰鬱な性根に嫌悪を抱き、大きくため息を吐いた。
せめて、尻切れとんぼになってしまった謝罪だけでも、最後まで終わらせよう。那子は腰を上げ、露景の部屋へと向かった。
障子の向こう側はこの日も、吸い込まれるような静謐で満ちている。揺るがすことを躊躇わせるような、しんと張り詰めた空気。那子は意を決し、声をかけた。
「旦那様」
正直、反応は期待していなかったのだが、何の気まぐれか、この日は室内で筆を置く音がした。それからがたごとと何かを片づけるような物音の後、床を軋ませながら足音が近づいて、障子にぼんやりと影が浮かんだ。
「お邪魔して申し訳ございません。ですが先ほど、お話が途中になってしまいましたので」
「ああ……そうだったな」
露景が障子戸を引く。部屋の中から、墨の匂いがふわりと溢れ出て、那子を包み込んだ。
「しかし謝る必要などない」
(ああ、まただわ)
緩やかな拒絶が、二人の間に膜を張る。
子守を任せたにもかかわらず、娘が危険にさらされたのだ。露景は那子に怒りを抱いていないのだろうか。
そうか、もしかすると彼の全身から発せられる無関心は、那子とはもう関わり合いにならないという意思表示なのではなかろうか。
「申し訳ございません。失望なさいましたよね」
露景は口を閉ざしたまま動かない。那子は気持ちがしぼんでいくのを感じながら、声を絞り出した。
「私、このままたぬ子さんの母親代わりとしてここにて、よろしいのでしょうか」
「……それは、この家を去りたいということか?」
そうではない。しかし、露景の役に立てず、たぬ子の世話もできないのであれば、いったい何のための雇われ妻だろう。
「たぬ子さんを危険にさらした上に、旦那様の大事な右腕にお怪我をさせてしまいました。それに、私には……変な痣も」
崖から滑落した時、露景は那子の痣を見て、険しい顔で黙り込んでいた。嫌悪を抱いたに違いない。
「その痣は」
露景は何かを言いかけ、躊躇う間を空けた後、小さくかぶりを振った。
「とにかく、傷跡なら私にもあるだろう。お互い様だ」
露景は、負傷したばかりの右腕を持ち上げる。仲間意識を抱くべきところではないし、そもそもその怪我は、那子のせいで負ったものなのだ。露景の言葉の意図を掴みかね、那子は言い募る。
「いいえ、でもそれは」
鬱々と垂れ流される後ろ向きな言葉を断ち切るように、露景の瞳が動く。深い藍色を帯びたそれが初夏の陽光を受けて鈍く光り、那子は言葉を封じられた。
「去りたいならば、引き留めはしない。荷物を纏めて、好きな時に出て行くといい」
がん、と頭を殴られたような衝撃を覚えた。事実上の解雇宣告だ。しかも、露景の口からその言葉を引き出したのは、那子の卑屈さなのだから救いようがない。
(ああ、私はいつもこう)
後悔しても時は戻らず、吐き出した失言は口の中に返って来てはくれない。那子はただ、しずしずと頭を下げた。
「かしこまりました。それでは私は明日」
「やだやだっ!」
突然、那子の裏腿に何かが突進してきた。軽く体勢を崩し、不可抗力で露景の腕に抱き留められる体勢になる。着物に染みついた墨の匂いなのか、それとも彼自身が発するものなのか、森に囲まれた早朝の湖を思わせる清らかな香りに包まれて息を呑む。近距離で一瞬だけ見つめ合い、那子は慌てて身体を離した。
「失礼しました」
「……いいや」
何とも言えない空気が二人の間を漂ったのも束の間。那子の裏腿に飛びついた温かな弾丸が、ばたばたと人間の手足を振り乱す。ついでに、赤い着物の裾から垂れた尻尾が激しく畳を打っている。
「やだやだやだ! おっかさん、明日もたぬ子と遊ぶの! いなくなっちゃだめえ!」
「たぬ子さん、いつからそこにいたの」
見下ろさずともわかる。那子に抱きついているのは、半分人化の解けたたぬ子である。
たぬ子は獣の丸い耳を倒し、目に涙を浮かべて取り乱している。
「おっかさん、またいなくなったら嫌だよう」
《《また》》、いなくなったら。
その言葉が重たく胸に押しかかる。
その明るさゆえ、忘れそうになるのだが、たぬ子は母親と死別している。
実母の身に起こったことをどの程度認識しているのか不明だが、母と呼んでいた存在を喪ったことは理解しているらしい。もしかすると離別の衝撃で記憶が曖昧になっており、那子と実母を混同しかけているのかもしれない。
「おっかさん、またたぬ子のことが嫌いになったの? ……だからもう会えないの?」
「違う。そうじゃないわ」
那子は膝を突き、半狸姿の幼子を抱きしめた。すかさず縋るように伸ばされた小さな手が、那子の背中をしっかりと掴む。
「あなたのおっかさんは、いなくなる瞬間まで、あなたのことを思っていたはずよ。本当はずっとずっと側にいたかったの。でも、きっと、どうしようもない理由があって、離れなくてはいけなくなったのよ」
「どうしようもない理由って?」
「それは」
那子は口ごもる。そもそも、たぬ子の実母の死因を知らない。
いっこうに続かない言葉を待つたぬ子の丸い目から、光る雫が零れ落ちる。
やがて、緞帳のように重たく垂れ下がる沈黙を割り、露景が重たい口を開いた。
「たぬ子の母親は」
声が、微かに震えた。
「彼女は、死んだのだ」
少し掠れた声が、彼自身の心にも傷があることを暗示していた。




