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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第一話 その面影を忘れぬように、妖怪画家は彼女を描く

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12 たぬ子を探して山へ②

那子(なこ)さん!」


 切羽詰まった声と同時に、力強い腕に包まれる。二人は一塊になり、小さな崖から転がり落ちた。


 斜面から飛び出した細い木の根や折れた枝、土の崩壊により露出した岩石の角に全身を打ちつけられて息が詰まる。とはいえ、那子の身体はほとんど露景(ろけい)に守られているため、皮膚が裂けることはない。


 やがて平坦な地面が二人を荒っぽく受け止めた。ひときわ大きな衝撃に臓腑が揺られ一瞬嘔気を覚えたが、露景が低く呻いた息に耳朶を撫でられて、那子は鈍い痛みを堪えて上体を起こした。


「申し訳ございません。お怪我は……」


 言いかけて、絶句する。露景が纏う濃紺色の着物の袂に黒い染みが広がっている。じわじわと範囲を広げるそれは、彼の右腕に大きな裂傷があることを物語っている。


「失礼します」


 那子は震える手で露景の袖をまくる。鋭利な石で切ったのだろうか、ぱっくりと肌が裂け、赤黒い血液がじわじわと湧き出している。


 那子は小さく喘ぐような悲鳴を漏らし、何か止血に利用できるものがないか、辺りを見回した。動転する那子とは対照的に、当の露景は痛みに少し頬を強ばらせるだけで、落ちついたものである。


「気にしないでくれ。すぐに癒える」

「でも」


 暗褐色の血液が、ぽたぽたと音を立て地面に染みを作っていく。


 露景は画家だ。箸を握っていたのは右手だったはずなので、利き手は右で間違いない。ならばこの負傷は、彼の画家としての今後に暗雲をもたらす可能性もある。


 那子が崖から落ちてしまったばかりに。


 猛烈な後悔と罪悪感に苛まれ、震える手で自分の着物の袂を傷に当てて圧迫した。その手の甲を、露景の左手が掴む。


「本当に大丈夫だ」


 気丈に繰り返す露景だが、その額には汗が浮いている。那子は唇を噛み、露景の腕を見下ろして、ふと思い出した。那子は常に、止血にぴったりなさらしを巻いているではないか。


「旦那様、私の使い古しですみません」


 傷から手を離すと、赤黒い液体がじわりと膨らむ。那子は自分の右腕からさらしを解き、驚きに眉を上げた露景の右腕を再び取って、傷口を閉じるように圧迫して布を巻いた。


 さらしはしばらくの間赤黒い染みに浸食されたものの、やがてその勢いは衰えた。こうも容易く出血が止まるような傷には見えなかったのだが、とにかく那子は、ほっと息を吐く。


 知らず浮いていた涙を瞬きをして引っ込めてから、顔を上げる。露景の、湖面のように静かな瞳と視線が絡まった。


「なぜ、このようなものを」


 深い色の瞳が、那子の右腕に向いた。それを追えば、乱れた袖から赤紫色の痣が覗いていた。反射的に胸の前で腕を抱く。


「これは」


 言いよどみ、露景の顔色を窺った。その眉間には深いしわが刻まれており、目には鋭利な光が混じっている。


(ああ、やっぱり不気味なのだわ)


 まるで、荒縄で締めつけられた痕のようにくっきりと浮かび上がる醜い痣。何者かから暴力でも受けたのか、それとも人知及ばぬ怪異に見初められたのか。醜怪な痕跡を見た他人は、時に眉をひそめ時に哀れんだ。


 露景が左手を伸ばし、痣に触れる。誰の目からも隠してきた素肌を撫でられて、小さく身体が震えた。


 露景は那子の腕を下から掬うようにして持ち上げて、眼前に寄せる。自身の身体に刻まれた醜いものを凝視され、羞恥で身体が熱くなる。


「旦那様」


 居たたまれずに小さな声が漏れた。軽く目を上げた露景と、しばし言葉もなく見つめ合う。やがて彼は、表情を変えずに淡々と訊いた。


「いつこの傷を負ったのだ」

「わかりません」


 那子は腕を引き、袖を下ろす。醜い肌をしっかりと隠し、声を震わせる。


「私の生みの両親がすでに亡くなっていることは、伯父夫婦からお聞きですか?」

「ああ。君が、まだ物心もつかない幼子の頃、山の事故でと聞いた」


 那子は頷く。


「はい。詳しくはわかりませんが、どうも急なことだったようです。事故の後、湖畔で倒れていた私を、地元の漁師さんが拾ってくれたのです。私の着物に、伯父が婿入りした小料理屋、みさわ亭の名刺が挟んであったそうで、身元がわかりました」

「その漁師が君を伯父上のところへ送り届けてくれたということか」

「はい。おかげさまで、こうして無事に大人になりました。その方がおっしゃるには、私を拾った時にはすでに、腕にこの痣があったのですって」


 露景の眉が小さく動く。いったい何を思っているのか、布地に隠された痣の辺りをじっと見下ろして黙り込んでいる。


 哀れむでもなく、恐れるでもない。沈黙に耐えかねて、那子が口を開こうとした、その時だ。


 下草ががさりと揺れて、木々の間から男の声がした。


「おおい、あんたら、大丈夫か」


 弾かれたように顔を向ける。そこには、筒袖の野良着に脚絆を履いた、三十路ほどと見える男の姿があった。


「うわっ、怪我してるじゃねえか。大事ないか?」

「ああ、もう出血は止まった。お騒がせしてすまない」

「はあ、そりゃあよかった。あんたら、山歩きの装備じゃねえな。いったいどうしてこんなところに」

「この辺りに住んでいるのだが、先ほどの地震であちらから滑落してしまった」

「ああ」


 男は崖の上に目を向けてから、視線を戻した。


「そりゃあ難儀なことで。しかしこんな山に人が住んでいたもんかね」

「山の奥で暮らしている。私は砂川露景。彼女は娘の……いいや、私の妻、那子だ」

「砂川? ああ、噂の妖怪画家先生か」

「噂の……ご存じでしたか」


 思わず那子が呟くと、男は「立てるか?」と那子に手を伸ばす。足の調子も問題ないので手を取り頷けば、彼は続いて露景に肩を貸して助け起こした。ぎこちない動きを見る限り、露景は足首も捻ったのかもしれない。


「そりゃあ、この辺りでは有名だからねえ。あ、おいらは山元平次(へいじ)。炭焼きをしている」

「山……」


 山元。その名を耳にした途端、脳内に鋭い痺れが走る。


 では、木霊(こだま)が教えてくれた、たぬ子を捕らえた人間というのは、もしかすると。


「あの、狸! 今日、狸を捕まえませんでしたか?」

「へ?」


 突然声を高くした那子に怪訝そうな目を向けてから、彼は少し記憶を探る目をした後に「そういえば」と頷いた。


「さっき、山道に半分埋もれるみたいに捨てられている置物を見つけて、もったいないから持って帰ったんだけど……そのことかい?」

「置物」

信楽焼(しがらきやき)? ってやつだったかな。ほら、笠を被った狸の」


 では、木霊が見たのは、たぬ子とは全く関係のない置物狸だったのだろうか。いいやしかし彼らは、狸は「お昼寝をしていた」と言っていた。それならば。


(もしかしてたぬ子さんは、置物に化けて隠れているうちに眠ってしまったのかしら)


 もしそうならば、洗濯物など後回しにして、もっと早くかくれんぼを始めていれば、たぬ子が居眠りをすることもなかったのではないか。後悔が胸を締めつける。……もっとも、全て憶測であるのだが。


 ともあれ、狸汁の惨劇は回避されたらしい。


 那子は肩透かしを食らった気分で口を閉ざし、露景と顔を見合わせる。少し呆けたような表情が返ってきた。そんな二人の無言のやり取りには気づかないらしく、平次は露景を助けながら山道を下り始めた。


「何だ、あの信楽焼はあんたらのやつだったのか。通りで綺麗だと思ったよ。普通、手入れもされずにあんな山道に放置されていたら泥だらけになるはずだから」


 少し歩くと木々が開け、茅葺き屋根の民家が現れた。年季が入っているが、広々とした敷地だ。


「しかし、それで血相を変えて山を下りて来るなんて、そうとう大切な置物だったんだなあ。怪我までしちまって、何だか申し訳ねえや」


 言いつつも、どこか怪訝そうな顔である。自然な言い訳はないかと言葉を探す那子が口を開くより前に、露景が生真面目な声音で言った。


「あれは、古き友から託された形見の品なのだ」

「へえ……?」


 いっそう当惑したような声だった。無理もない。狸の置物が形見、というのはまああるとして、そのような大切な品を山道に放置するなど不自然にもほどがある。那子は咄嗟に誤魔化した。


「ど、道祖神代わりだったのです」

「道祖神? 狸が?」

「ええ。霊験あらたかな」

「はあ」


 墓穴を掘った。露景が口元をうごめかせている。どうやら、頬が緩みそうになるのを堪えているらしい。


「そりゃあすまないことをした。ほら、あっちの玄関の辺りに信楽焼が……あれ、こんなところに置いたかな」


 平次が示した玄関の引き戸の側はがらんとしている。代わりに、やや離れた場所にある薪割り用の切り株の側に、小さな狸の焼き物が少し斜めに立っていた。


 まるで、動いている途中に誰かに見つかり慌てて静止したような……いいや、おそらく本当にそうだったのだろう。


「おかしいな、確かにここに置いたんだけど。誰が動かしたんだ?」

「獣だろう」


 たぬ子の隠密行動を想像したのだろう、軽く頬を痙攣させてからもっともらしく言い、露景は平次の腕から離れて切り株の方へと向かった。


 もう足は引きずっていないし、失血で蒼白になりつつあった顔色も、元に戻っている。何よりなことだが回復が早すぎる。もしかすると最初から、さほど堪える傷ではなかったのかもしれない。腕の裂傷は決して軽傷には見えなかったが。


 その上、露景は切り株の前で屈むと、傷が痛む素振りなど一切見せず、軽々と信楽焼を抱き上げた。


「あ、私が抱きます」

「いいや、問題ない」


 傷を気遣った那子に首を振り、露景は腕の力を少し強めた。ぎこちないながらも慈しむように抱きしめ、つるりとした焼き物の頭頂に軽く頬を寄せて目を細める様子はまさに新米父そのものだ。


 たぬ子……らしき狸像が見つかった安堵と、目の前で繰り広げられる愛情に満ちた美しい光景に、那子はほう、と息を吐く。対して、平次は困惑気味だ。


「はあ、そうとう大事な狸だったんだなあ」


 那子たちが帰った後にはきっと、山奥に住む妖怪画家は置物を偏愛する変わり者である、という噂が人里に流されることだろう。

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