11 たぬ子を探して山へ①
聞き込みをすれば見つかるはずだと豪語した覚は実際のところ、誰に声をかけるでもなかった。例の通り、生き物から漏れ出す思考の断片をつなぎ合わせ、たぬ子の進んだ方角を導き出しているのだ。
そんなこともできるのかと妖怪の異能に感心すれば、覚はにやりと笑い「造作ねえよ。あんたも何かあったら心の中で俺を呼びな。すぐに駆けつけてやるから」と嘯いた。
山慣れしていない那子を気遣ってくれているらしく、先導する覚が選ぶのは、獣の歩行で下草が折られた比較的歩きやすい道だ。とはいえ、足場の悪い坂道であることに変わりはない。しばらく行くと疲労困憊してきて、息が上がり始める。
立ち並ぶ大きな樹木が途切れ、陽光が差し込む空間が見えるなり、覚は肩越しに振り返った。
「ちょっと休もうぜ。そこに渓流がある」
木々が減ったのは、水場が広がるせいらしい。那子は、覚が見繕ってくれた、やや苔むした岩に腰を下ろした。
草鞋を脱いで足先を流れに浸すと、ひんやりとした水が疲れた足を揉んでくれる。張り詰めていた気が解れ、大きく息を吐いた那子の目の前に、水が滴る長毛を垂れ下げた腕がにゅっと迫った。
突然のことに思わず上体を引く。伸ばされた覚の手のひらの上には、橙色の木苺が山になっていた。
「食えよ。腹減っただろ」
この妖怪、案外優しいのだ。
「女をものにしたけりゃ、これくらい当然だよ」
覚は手際よく、瑞々しい木の葉を岩の上に敷いて、木苺を無造作に積む。橙色の小山を挟み那子の隣に腰掛けると、覚は木苺をぽいぽいと自分の口に投げ入れた。
「美味いぜ。遠慮すんな」
「ありがとう……」
「焦っても仕方ねえだろ。まあ待っていろって」
覚は言って、木の実を嚥下した。
いったい何を待つのかわからないが、ここは山を熟知している覚に任せておく方がいいだろう。那子も木苺を口に入れてみた。さっぱりとした甘みが口内に広がり、自覚していた以上に空腹だったことに気づく。
もう一つ木苺に手を伸ばす。咀嚼を繰り返す二人の間には、自然と沈黙が訪れた。
水のせせらぎに小鳥のさえずりが折り重なって、清々しい初夏の音楽を奏でている。しばらく耳を傾けていると、自然音の合間に、さわさわという囁くような声が混じっていることに気づいた。
「ああ、あんたにも聞こえるか」
覚が手を止め、近くの樹上を見上げた。
「誰の声なの?」
「木霊さ」
覚は腰を上げて木々が並ぶ方へと声をかける。
「おおい、おまえら。この辺りで、人間の匂いが染みついた妖狸の子を見なかったか」
覚の呼びかけに答えるように、風もないのにざわりと枝葉が揺れる。ささやき声が塊になり、梢から雨のように降り注ぐ。
「ちっ、こいつら数が多すぎて、思考がごちゃごちゃに混じって読み取れねえ。おい、一人ずつ喋ってくれ」
忌々しげな声に打たれ、ささやきはぴたりと止まる。
しばしの無言の後、樹木の洞や枝の上に、淡い燐光を放つ球体が無数に現れた。彼らが木霊なのだろう。
「妖狸の子を探しているの?」
木霊が一つ、ひときわ明るく光る。
「あの子のことだろう」
「それらしい子なら、さっきまでそこでお昼寝していたよ」
代わる代わる、光っては静まる。どうやら、声を発する番になった個体は光を強めるようだ。
「それで、狩り人に連れて行かれちゃった」
「狩り……」
狸と狩り人。
ぐつぐつと煮えたぎる狸汁の図が、瞬時に思い浮かぶ。全身から血の気が引いて、気づけば立ち上がっていた。
「大変、助けに行かないと。ねえ、その狩り人のお家、わかる?」
「麓だよ」
「あの道をずっと下っていったところ」
「お家は一軒しかないからすぐにわかるよ」
「名前はたしか」
「山元のじいちゃん」
「ありがとう! 覚、行きましょう」
那子は光の群れに向けて頭を下げて、覚を促し坂道を駆け出した。那子の身体が巻き起こした旋風に煽られて、木霊が数体「ひゃあ」と声を上げて宙に舞う。
脇目も振らずに下っていく那子に四足歩行で並走し、覚が声を上げた。
「おいおい、ちょっと落ち着けって」
「落ち着いてなんていられないわ。だってたぬ子が」
もう、料理になっているかもしれない。
「いやいや、待てって。だからあんた、ちょっと勘違いを……む?」
「何をしている」
冷えた低い声が投げかけられた。決して大きな声ではないのだが、空気を凍りつかせるような剣呑さがある。
那子は足を止め、声の主を見上げて目を丸くした。
「旦那様?」
五日ぶりに戻ってきた主人と、このような山道で再会することになるとは、露ほども思わなかった。その上、何やら氷柱のような怒気を纏っていて、那子は困惑する。
「どうしてこんな場所に」
「けっ。俺が那子に近づいたのに気づいて慌てて戻って来たんだろ。雑に扱っておきながら図々しい。まあ仕方ねえ。あんたらの一族は、縄張り意識の塊だもんな。おい、那子」
未だ理解が追いついていない那子に、覚はちらりと牙を覗かせ笑みを送った。
「また会いに来る。今日は楽しいデエトだったぜ」
「デ……」
露景の眉がぴくりと揺れた。どういう感情なのかしらと疑問が一瞬だけ脳裏を過ったが、露景の顔はすぐに元に戻ってしまう。表情の乱れは、気のせいだったのかもしれない。
「じゃ、あとはおまえらで何とかしな。俺に感謝しろよ。おてんば狸の居場所を見つけてやったんだからさ」
覚は嘲るような笑い声を露景に投げて、そそくさと茂みの奥に溶けて行った。
突然の展開過ぎる。呆気にとられ、赤茶色の背中が消えた辺りを眺める那子に、露景が低く問いかけた。
「いったい何事だ。たぬ子がどうかしたのか」
言われて、はっと我に返る。そうだ、たぬ子が食われてしまうかもしれない。
那子は自分の着物の胸上辺りで拳を作り、露景に訴えた。
「大変です。たぬ子が、人間に捕まってしまって」
「人間に?」
「狩りをする人なのですって。山の麓の山元さんという人。急がないと、普通の狸と間違われて万が一のことがあったら」
言い終えるより前に、露景は踵を返し、山道を下り始める。那子が後を追うと、露景は短く言った。
「君は家に帰りなさい」
「いいえ、一緒に行きます」
「だめだ」
立ち止まり、振り返りざまに発せられた鋭い声に、思わず息を呑む。
瞠目した那子の顔を見て、露景は少し表情を曇らせたが、主張は断固変わらない。
「危険だ」
「相手は善良な人間ですよ。いったい何が危ないのですか。それよりも、山道を一人で家まで戻る方が危険です」
露景は口を閉ざし、眉根を寄せる。那子の指摘通りだと思ったのだろう。露景が、躊躇いながらも「だが」と言い募ろうとした時だ。
険しい顔が、がくんと揺れた。一拍遅れて、揺れたのは露景というよりも地面であることに気づく。
よろめいた拍子に小石で滑ってしまい、那子の身体は斜めに傾ぐ。踏み留まろうとして片足を前に出す。しかし、草地に下ろしたはずの足裏は宙を蹴る。草の生い茂るそこには地面はなく、崖になっていたらしい。那子は転がるようにして空中に投げ出された。




