◇ジャックナイフと赤の闇
◇ジャックナイフと赤の闇
《1》
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ
肉塊から赤黒い液体が滲み出る音が反響する
真っ暗な部屋の中、ふたりの男女の影が、淡々と談笑していた
【まだ何かやってるの、マック?もうソレ、動かないでしょ】
若い女が、腕を組みながら言う。長い前髪に隠れて左目が窺えない彼女の、それでは右目はと言うと、薔薇のような血のような、温度を持った赤色をしていた
【うんとね、ベロ引っこ抜けるかチャレンジ】
マックと呼ばれた少年は、無邪気に笑う。女とは対照的に短くさっぱりと切られた髪には、べっとりと赤い液体が跳ねている
その片手には、ジャックナイフ。さながら藪の手術医のように、少年は肉塊を刻んでいく
肉塊、というのも、死体には最早肌色の部分はなく。その全身は恐らくソレ自体から噴出したであろう鮮血に染まりきっていた……性別の判別もつかないほどにぐちゃぐちゃに。少年の髪に、あるいは顔に、首に、身体に跳ねた液体とは、即ち死体から噴き出た血に他ならない
少年は、遺体の眼窩にジャックナイフを突き刺し、それを軸に手隙の左手で遺体の舌に掴みかかった
【わー、ヌメヌメしてすべる】
少年は楽しそうに亡骸を弄ぶ。彼の瞳は色の識別が叶わないほどに澱んでいた
【死体のベロなんてよく触れるわね、気持ち悪くないの……?】
若い女が、呆れた貌で少年の方へ歩き出した。コツコツと、ヒールが石床に刺さる
【ど、どう?いけそう?】
先程までの傍観者面はどこへやら。女は興奮を隠しきれないといった様子で少年の顔を除きこむ
【うーん、無理かなぁ。もうめんどくさいや。
えいっと】
そう言って、少年は眼窩からナイフを引き抜くと、そのまま屍の口腔内に入れ込み……
ぐぢ、ずる、ざっ、ざっ、ざっ…ぶちっ
ぶちぶちぶちっ…びちゃ
その舌を、切り落とした
【いぇーい、一丁あがりぃ!】
【うわ、汚ぁい。ちょっとやめてよぉ】
嬉しそうに女に笑いかける少年に対して、満更でもなさそうに、一応は迷惑そうな素振りをする女
【ジュリア、どうかな?】
切り落とした舌をぶらつかせながら、少年は女の瞳を射抜くように見た
【寧ろちょっとやり過ぎよ……でも、ええ。せいせいしたわ。愛してる、マック】
ジュリアと呼ばれた女は、恍惚とした表情を浮かべそう言うと、優しくマックの頭に手をまわし、彼の感触を確かめるように自分の胸に沈めた
【やっぱり君がいちばん綺麗だ】
ジュリアの胸の中で、にこり、と微笑むマック
【マック……】
ジュリアの右目に浮かんだ雫には、瞳の紅が乱反射する
ーーそして昂ぶった男女は、行為に及ぼうと手近なブランケットを何枚か雑に床に敷いた
【邪魔だな、コレ】
蝿が湧き始めた屍に、強烈な蹴りを入れるマック。敢え無く、肉塊は窓から放り出された。べちゃり、と下から生々しい音が聞こえる
そんな事はどこ吹く風。まるで世界に彼らだけしかいないかのように、向かい合うふたり
【殺す。それでオレは、ジュリアへの愛を証明し続けるよ】
【ええ。そうして。私を見下す醜悪な女共を、見事殺し尽くして頂戴】
死体が蹴散らされて尚、腐臭漂う部屋の中で、晴れてーー或いは曇ったままでもーーふたりきりになった彼らは唇を重ね合う
閑静なゴーストタウンに、狂った愛の音が鳴るーー狂人たちの一日は、そんな夜から始まった
◇
【きゃあああああ!し、死体…!】
例の屍を見つけたのだろう。若い女性の叫び声が明け方の空を劈いた
【…あ"ああ"あああ"!!うるっさいなぁ!!】
殺人鬼たちは、泥のように眠っていた。叫び声を知覚して、まず飛び起きたのはマック
【……ん。なに?】
次いで目を覚ましたジュリアの左目は、寝起きにも関わらず長い前髪に隠れたままだ
【あ"あ!?昨日の死体に騒いでるのか……くそ、うざいな、まだ早いっていうのに】
心底苛立たしそうに言うと、マックは乱雑に敷かれたブランケットと、ジュリアのそれなりに大きな胸に身体を沈め、再び眠ーーらない
【っぷああっ!】
不本意に起こされて黙っている彼ではなかった。深呼吸をすると焦点の合わない目を見開く
【ジュリア】
少年が一言名前を呼ぶと、ジュリアは【ええ】と言って、下からは死角になるように、窓枠の外から女性を覗き見た
【あの馬鹿でかい声、女だろ。顔、覚えた?】
何もない天井を仰ぎながら、マックは「いつものように」ジュリアに尋ねる
【ええ、覚えたわ。何だかお嬢様然としていて、気に入らない女。ウェンズの方へ走って行ったけど、あの調子じゃヒールが折れてむざむざ自滅ね】
そう吐くジュリアの赤眼には、彼女のみぞ知る澱のような感情が宿る
何とか体勢を立て直し、ジュリアの言った通りその女は街の方へ逃げ走って行った。足取りは覚束ない。途中で乱暴にヒールを蹴り捨てると、女はしきりに目元を擦りながら、再び走り出した
【マック、行きまし……】
すぐに女の影を追いかけようとするジュリアだったが、マックに肩を掴まれる
【…いつも通り焦らずに行こう、ジュリア。この足音なら、そうだな、街に着くまでには追いつけるよ。それに、顔はちゃんと覚えたんだろう?】
薄く笑うその貌には、湧き出る殺意が隠せない
【で、でも……んっーー】
何か言いたそうなジュリアだったが、マックに唇を奪われて、その言葉は喉元で止まった。しばらく激しく舌を絡め合ってから、ようやく唇を離す
蕩けそうな表情のジュリア。マックはその額に自分の額を寄せると
【ほら、君も女の子なんだ。髪くらい梳かさなきゃ】
気障に笑ってこつり、とぶつけた
ジュリアは困ったような貌でもじもじして
【私、別にジャック以外の男にどんな風に思われても構わないもの】
と、くすんだブロンズをいじくる……が
【もっと綺麗な君を感じたい】
歯の浮くような台詞を真顔で宣うジャックを背に、一目散に洗面台へ向かった
《2》
【おいおい、そんな目深にフード被って、随分と余裕だな殺人鬼!!】
受付の青年ーーもとい、ヒューブレヒトが、鋭い剣幕で睨みつけるのは、十中八九、彼の目星と思しき不審人物。否、現行犯の危険人物
その人物を挟むように、向かい側にはしなやかに剣を構える絶世の美少女……のような少年
【あれ、お兄さんやっぱ戦えたんだ。まあいいや、こいつを逃がさない手立てが増えた】
サツキはにやりと笑って剣を抜く
ワイズが鉄扉の先を完全に捉えたときには、既に先の口上は終わり。荒れた地面と、点在する木々のみが窺える宿裏では、三者の得物がそれぞれの敵に向けて構えられていた
庭(荒れていようと、立地的にはそう呼ぶべきだろう)の隅では、純金の髪を携えた少女が、怯えながら戦況を覗き見ている。ここまで本当に必死になって走ってきたのだろう。上品そうな白を基調したフリルのブラウスは土埃やひっつき虫にまみれている上に、薔薇の意匠が施されたサーモンピンクのヒールは右足しか履いておらず、しかも無惨に折れてしまっている
ただ、一先ずフードの凶刃は、ふたりの戦士のお陰で彼女からは遠のいた。少女の表情からも、その安堵が窺えた
【大丈夫?】
ワイズは、まずそろりと少女のもとに駆け寄ると、恐る恐る声をかけた
【だだ大丈夫に決まってるじゃない!!だいたい、あの程度の下劣な犯罪者ごときーー】
威勢良く応える少女
(あ、良かった。元気そう)
ワイズの眉間の皺が解けるーーと
シャキン、と誰かが刃を抜く音が鳴った。結局、その音は鍔の無い例の剣を引き抜いたサツキによるものだったのだが、先程までの威勢を薙がれたのか、少女は【ひいいいやあああ】と言って目を覆ってしまった
【だ、大丈夫?】
もう一度、ワイズ
【だだだ大丈夫よ!でも、ちょっと。ほんの少しアタシが危険かもしれないから、アンタ、アタシの前で盾になりなさいよね!】
何でかプンスカと頰を膨らませながらワイズに命令する少女。漂うノブレスに抗う理由もないので、ワイズは【ええ…?】と言って、彼女の視界を塞ぐ形でおそるおそる前に立った
キィィン
剣戟が始まった。その音をしてようやく緊張感を取り戻したワイズの目に映ったのは、意気込むふたりの戦士。そして彼らと互角に渡り合う、不穏なフードの姿だった
振り返ると、少女は【ひええあああ】と慄きながら、耳を塞いでしまっていた
◇
サツキは斜めに構えた得物を、フード目掛けてしならせる。太刀筋は美麗。鋭く放物線を描く切っ先がまさにその身体に届く。日々近隣諸国の猛者と命懸けの実戦を繰り返す王統百騎の騎士として、サツキはむしろ勝負が一瞬で着いてきまうであろうという結末に、若干辟易しつつ切っ先を見つめていた。勿論一切手を抜くつもりはない。たとい数的有利があろうとも、たとい対向に見える白賊の戦士ひとりで討伐に足りるであろうと見積もっていても、だ。それが強者の矜持だと、教えてくれた人物の顔を浮かべながら
一方、痩身のヒューブレヒトは、ゆらりと正眼に構える。彼の得物は、あの狭い受付のどこに隠していたか、白い装飾が施された大剣。下手な丸太より重そうなその大剣をいかにも軽々しく扱うその膂力は、一体どこから湧くのか。と、そんなことをワイズが思うまでもなく、ヒューブレヒトは重さなど物ともせずフードに間合いを詰め、そのまま大剣を振りかぶった。向こう側から、しなやかに太刀を振るう…否、太刀で舞う、とでも称すべき鮮やかな動きを見せる美少女を一瞬捉え、王統百騎に手柄を取られる訳にはいかない、と、少しだけ柄に込める力を強めた
原子さえ真っ二つにしてしまいそうな、繊細で美しい白刃が空を凄絶に切り裂く
大地さえ割ってしまいそうな、豪胆で超重量の大剣が空を凄烈に切り開く
そしてそれらの切っ先が描く孤の先には、退く気配など微塵もない小柄なフード
勝負は一瞬で着く。サツキなどは、この時点で既に事後処理について考えていたほどだった
サツキだけではない、その場にいた誰もがそう思い、そして、一刀、否二刀両断されたフードの残骸を、半ば夢想していた
ーーただひとり、フード本人を除いて
虚ろな街に、金属のぶつかる衝撃音が響き渡った
【!!!】
固まる。言いようのない「予想外」に、彼らはそれ以外の行動を成すすべを持たなかった
それも無理のないことだろう。なぜなら
【……】
フードは、あろうことか両手に携えた只のジャックナイフで、双方から向かってくるサツキとヒューブレヒトの一撃必殺を、迎撃したのだから
◇
【なに…!?】
予想外の展開にたじろぐヒューブレヒト。大剣の破壊力に任せ、一刀にてカタをつけるはずだった彼に一瞬の動揺が走り、必然、込める力が揺らぐ
【……】
フードは無言のまま、その一瞬を捉えてサツキたちの剣を押し返した
【…っ!】
弾かれたサツキが反射的にフードから距離を取ったときには、フードのジャックナイフはその両方がヒューブレヒトを捉えていた
体勢を崩したヒューブレヒトが大剣を持ち上げるよりも速く、その凶刃は彼の首を目掛けーー
【……!?】
果たして、寸前で止まった。否、止められた。どこからか放たれた何かがぶつかり、右手のジャックナイフの軌道がぶれたのだ
【こ、こっちだ!!】
石の飛んできた方を見るフード。そこには、息切れしながら威勢良く叫ぶ、ワイズの姿があった
【…やるじゃん!ワイズ】
ひらりと構え直しながら言ったサツキの目線の先には、二撃目をフードに向けて放とうとするワイズ
【……】
フードはワイズを一瞥すると、即座にワイズの方に向かって走り出した
【う、うわっ!】
後退しつつ礫を投げる。しかし、一投目の幸運は再来しない。礫はフードをかすりもせずに草むらに消えてしまった
迫るフード。全速力でワイズに迫るその影に、逃げ場のない壁際へ追い詰められる
僅かな間隙もなく、次の瞬きの後には、殺人鬼のナイフにワイズの姿が映っていた
(死ぬ)
過ぎったのは脊髄を劈くような感覚。昨日のような生半可な「疑惑」ではない
それはもう、「直感」と呼んで差し支えない。全ての音が、自分命に踏み込んでくるような錯覚に囚われる
(間違いなく死ぬ)
稲妻と猛毒が同時に訪れたかのような恐怖が、ワイズの脳天から足先までを支配した
すると、俊敏だったフードの無駄のない殺人への所作が、突然緩慢に見え始める
(あれ…?)
瞬間、走馬灯の如く、ワイズの脳内で、細切れのとある記憶が物凄いスピードで迫ってきた
生きるための方策ではない、思い出したのはワイズが何となくで理解したつもりになっていた「本当」でなかったもの
ヒューブレヒトの言葉。「殺人鬼」と、彼は確かにそう言った
昨日、その影に怯えた。その影が振るうであろう、「凶器」の風を切る音に怯えた。昨日は結局勘違いだった。殺人鬼はそこにいなかった。居たのはサツキだった。サツキには「それ」がなかった。サツキは殺人鬼ではなかったから。だからこそ、知り得なかった
(これがーー殺気)
フードの奥は陰って見えない。しかし、そこには本当に恐れるべき実在が見えた
今ならば魔法使いの眼を見ても正気でいられるのではないかとすら、ワイズは思った
殺人鬼が恐ろしいのは、凶器を持っているからではない。その真に、今更気付く
表情も、雰囲気も読み取れない眼前の殺人鬼から、どうしようもなく滲み出る悪意。敵意
ーー殺意
(ああ…)
殺人鬼を殺人鬼たらしめるのは、外面だけの「凶器」ではない。純然たる「狂気」なのだと、ワイズはナイフが放つ灰色の煌めきに心を刺されて、ようやく理解した
夢ではない。それは、人を殺そうとする感情に違いなく。故に、今自分は「殺される」のだ
フードーーもとい殺人鬼が、ワイズの急所を的確に狙った一撃を振りかざす
目前に迫る「本当の殺気」に、ワイズの脳裏からは、抵抗のふた文字すら消え去っていた
世界はスローモーションになった。もう生きる方策など浮かぶべくもない。ただ、ジャックナイフの鈍い反射が、だんだんはっきりとなっていく。感覚はゆっくりでも、足掻く余裕も、なす術もない。
そして、ついにワイズの首に、冷たいものが触れた
(あ。死んだ)
ワイズは、ぎゅっと目を瞑った。ナイフが喉元を抉る瞬間が、この後すぐに訪れる。そこまで悟って、やっとワイズは最愛のひとのことを思い浮かべた
ふわふわとした赤髪が、嫋やかな笑顔が、快活な挙動が、物憂げな青い瞳が、壊れそうな柔肌が、囀るような声が、夢のような君がーー
ーー自分ごと無くなる。その実感は、ついにワイズに追いつくことなく、命と共に
誰も知らない夢となる
《3》
赤い闇のなかにいた
【死んだのか】
そこは、自分の声が世界で一番響く場所だった
闇を見渡す必要はない。それは赤色であるのが自然だと、ワイズ・ダイラーは知っていた
血ではない、太陽でもない。それはーー
【死んでねぇよ】
赤色の声がした。それが赤色である意味が、その声の正体だと思った
【でも、ここは炎だ。なら、おれは死んでいなければならない】
ワイズは、自分の声が赤色の声とは違うことが、不思議ではなかった
【…そうだな。それは間違いねぇよ。だがな、ここは炎だが、ここでないなら炎じゃねぇ
だから私がお前にそれを教え直すハメになる。いいか、お前は死ぬことが怖いんじゃない。お前はーー】
赤色は心底憎いと言った調子で、ワイズに響く
【で、でも!おれは殺気を知って、死を感じて、悟って…悲しかったんだ、非力な自分が。だから強くなろうと、なのに…】
涙は出ない。ワイズは、赤色の中の自分が、どんな貌をしているのか判らない
【黙れ!!】
ワイズの言葉を遮るように、赤色は慟哭した
闇が蠢きだした。揺れる、揺れる、風もなく
赤く、紅く、朱く、緋く、赫くーー燃える
【ーーああ、クソ。取り乱しても意味ねぇんだった。もういいや、さっさと行けよ「××」お前に死はない。ああ、その点では「流星」と一緒じゃねぇか。いい気味だぜ】
嘲るように赤色は燃え続ける
【……】
ワイズは、赤色が言っていることの意味がわからなかった。だから、いつもこう応えるのだ
【そうだ、ミーナのために。おれは生きなくちゃいけない】
そして、闇はこれ以上なく燃え盛った。滾り、メラメラと音を立てながら、赤色の激情が響き渡った。憤怒の闇が、赤色に爆発した
【××がぁぁぁぁぁぁぁ!!!××風情がぁぁぁぁ!!!××!!!××も××も××も××も!!
××××××××××××××××××ぁぁぁ!!!!!】
ノイズのように途切れながら、裂帛の叫びに震撼する闇
【なんだよ。わからないよ】
ワイズは、闇に向かって問いかけた
しかし、答はない
代わりに、闇はグルグルと収縮し始めた。無限に広がっていた赤い闇は、やがてひとつの影に収束した
【なんなんだよ…】
ぽつりと呟くと、赤くなった影が、つま先から勢いよくワイズを取り込んだ
【ああ】
脛、腿、腰、腹、胸、腕、脳
【ああ】
全身を赤色に纏われて、ワイズの視界は途絶え、意識は混濁した。気付くと、身体の中までが赤色の闇に覆われていた。ただ一点、首筋だけが空虚に涼しい
そして、閉じた瞼の先が、白い明りを感じる。外の世界に戻っていく気配だ
【おれは、生きる】
瞼が、開く準備をした
【聞こえねぇだろうがな、教えてやるよ
お前は××××××××××××××××】
赤色の最後の言葉が内から響いた
灼熱に抱かれる。やがて、唯一赤く染まらなかった首筋に、灼熱が凝縮した
真っ赤な花のように、咲く。ひどく歪で、鮮やかな一輪のチューリップが、咲く
◇
ーー眼を開けると、ワイズの首筋が、真っ赤な炎に焼かれていた
《4》
ーーワイズが眼を開けると、耳に飛び込んで来たのは、自らの血肉が断たれる音ではなく
ボウボウと、自分の首筋が。そしてフードの全身が炎に包まれ、燃える音だった
【あ"ああ"あああ"ああああ"】
沈黙を守っていたフードが、初めて声を上げる。苦しみに悶える、断末魔同然の声だ
【え?】
珍紛漢紛。さっきまで生々しい殺気を前に、殺されるのを待つだけだったこの身が、あろうことか突然発火し、そして同様に直前の殺人鬼も赤に染まっている
燃えるフードの背後で、サツキとヒューブレヒトが、得物を振りかぶったまま固まっている。唖然と口を開ける様子は、少々滑稽ですらあったが、ワイズにはその光景すら飲み込みが難い
(生きてる…?)
少なくとも、身体感覚に異常はない。首筋が轟々と燃えていること以外は
フードの足元の草むらが燃える。フードの服が燃える。フードの皮膚が燃える。燃えて、燃えて、燃えて。焦げ臭い匂いが裏庭に漂い始めた
【あ"…ああ"あ…ああ"ああ…ああ"】
フードは依然燃え続ける。壮絶な苦しみの中、しかし、彼は尚もそのナイフをワイズに向けていた
【ちょっ、何!?何で燃えてんのコイツ!?】
サツキが堪らず叫び、危うく構えていた刀剣を放り投げそうになる
【オイ!このままじゃお客さんまで燃えるぞ…ってもう燃えてませんかねぇ!?】
サツキとは対照に躊躇なく大剣を捨て、燃え盛るフードの方へ駆け寄るヒューブレヒト。その貌に受付で肩肘を付いていた頃の飄々とした気配はない
【み、水!!…ってアア!!この時間はまだ業者なぞ来てねぇか畜生!!】
ヒューブレヒトがあたふたと喚いている中
(どういうことだ…?人体発火現象にしては、何か違和感がある…このフードは何でいきなり、それもただの一瞬で全身燃え始めたんだ?)
遅れて駆け寄ってきたサツキが、フードの身体の端から、ようやくワイズの姿を捉えた
(ワイズは無事…【って、ハア!?】
安堵は一瞬。サツキ、気付く
【…首筋だけ、燃えてる…?】
浴場で見た、ワイズの首筋を走る歪な火傷。花のような形のままに、そこには炎が浮かび上がっていた
【そうだ!「ビバ!スパ!」に行けば残り湯ぐらい見つかるんじゃないですかねぇ!?】
依然消火方法を模索するヒューブレヒトは、これ名案とばかりに早速鉄扉まで走り出した
【おにーさんバカなのかな!?こっから「ビバ!スパ!」までどんだけ距離あると思ってんだよ!!
奥の森に池があった。そっちに汲みに行った方が断然速い!】
【いや、自分で言い出しといてなんですが、そもそもふたりがかりで汲める水なんてたかが知れてますよね!!】
【ハア!?アンタ白賊なんだろ!お仲間のひとりやふたりいないのかよ!!】
【ご生憎様、単身任務中でしてね!!】
【連携力がウリじゃないのかよ!…ってかさ
待ってよ、おにーさん。】
怒涛の舌戦を止めたのは、サツキだった。
【え?】
【見ろよ、炎が…】
◇
【あ…あ"…】
フードの命に炎が迫る。灼かれて塵になるこの殺人鬼の最期を予想するに難しいことは何もなかった
ワイズは、どうしてか動くことができなかった。恐怖からでも、弛緩からでもない。自分の首筋から伸びる真紅の炎が、灼熱の苦しみに悶えるフードから離れようとしなかったからである
(おれは生きてる、死んでない。でも、このフードが、死ぬ。このままじゃ間違いなく死ぬ。それはダメだ。なあ赤色、おれが殺すのか?)
赤色の声は聞こえない。ワイズは、どうしようもなく燃え続けるフードを見つめるしかない
フードの背後でサツキと受付の青年が何か言い合っている
(クソ…)
彼らに何かを伝えようとしても、声はゴウゴウと燃える炎の音にかき消された
【……あ"】
ーーフードの声が、ついに途切れた。執拗にワイズの命を狙っていた殺意のナイフがフードの手から落ちたのと、まったく同時のことだった
(殺して…しまった…)
鼓動が冷たく高鳴った。取り返しのつかないことをしてしまった感覚と、もうあの殺意に恐怖しなくて済むという感情に板挟みに合う
カラン、とジャックナイフが、地面とぶつかる音がした。反射的にワイズがそちらに目を向けると、そこには何事もなかったかのように佇む枯れた草むらがあった
【あ…あー…あ】
声が出せることを確認する。そっと喉元に手を当てると、そこに炎はもうなかった
ずっと熱かった。でも、不思議と苦しくはなかった。首筋の炎は、ワイズの命を削った様子もなく、静かに消えていた
(なんだろう。まるでーー)
まるで、最初から炎などなかったかのような、そんな感覚になった
ちらりと、周囲を見渡す
眉を顰めるサツキと大口を開けて驚嘆の表情を浮かべる受付の青年
斃れた殺人鬼と、巻き添えを食らったはずの周辺の草むら
(これはーー)
屈んで、草むらに触れる。やはり、熱くない。焦げていない。燃えた痕跡など一切見せない光景が、そこにはあった
否、「そこにも」と言うべきか。炎は消えたのだ。草むらからも、ワイズの首すじからも
ーーそして、フードの全身からも
◇
【見ろよ、炎が…消えてる】
サツキの目に映ったのは、くずおれる殺人鬼と、地に落ちたジャックナイフ。そして、何事もなかったかのように消えた「確かに燃えていた炎」の虚像だった
ワイズは、膝をついて蹲っている
【はあ…何なんすかねぇ。燃えたり消えたり、忙しい】
呆れ半分、安堵半分のヒューブレヒトは、面倒臭そうに溜息をつく
【おいワイズ!大丈夫!?】
ワイズのもとへ駆け寄ると、サツキはおさげを邪魔そうに払って、剣を抜いた。
【……】
その目には警戒が見透く
【や、やめろよサツキ。もう気絶してる】
首筋に手を当てるワイズがたしなめる
(もう「殺気」は感じない…)
動かなくなった彼の「フード」が、不意に流れた風にはだけた
【すぅ、すぅ】
先ほどまでの惨状からは想像もできないほど、あどけない少年が穏やかに寝息を立てていた
【うっそだろ…?】
フードの素顔に、サツキが変な顔をする
【こんなんに弄ばれ掛けたんスか俺ら】
ヒュブレヒトも苦虫を噛み潰したように顔をしかめた
【うう…】
そんな2人を気に留める余裕などなく、ワイズが自力で立ち上がろうと背後の壁にもたれながら体を起こすと、サツキが手を差し伸べてくれた
【ワイズ。色々と言いたいことはあるけど、一先ずはコイツを連行したいと思ってる。異論はないか?】
【ええと、うん】
状況を掴むこともままならないまま、ワイズはサツキがフードーーもとい殺人鬼の少年を手際よく拘束していく様子を、ヒューブレヒトの頼りない肩に背負われながら見ていた




