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第9話

ハッと我に返ったイオアンは、

「ただの趣味です。何でもありません!」

とサンガリアを押しのけるように図面を畳むと、そそくさと筒に入れた。


そんなイオアンを、サンガリアは興味深そうに眺めている。


三十過ぎのダリル・サンガリアは、タタリオン家の書記官を務めていた。いつも上品な身なりで、物腰は柔らかく、浅黒い肌の整った顔立ちをしていて、総督府の女官や侍女からは絶大な人気がある。


このように優男風なサンガリアだが、上流階級の不正には容赦がないので、嫌っている騎士も多い。そんな彼をイオアンは好意的に見ていたが、いままで親しく交流することはなかった。


そんな男が、なぜ急に? サンガリアの様子を窺ったが、何も言わず穏やかな表情を浮かべている。沈黙に耐えきれず、イオアンのほうから声をかけた。


「私を探していたようですが⋯⋯」


「そうでした! アルケタ殿に代わって呼びに来たのです」


「弟の代わり?」


「はい、写本室でお待ちです」


「いま来てるんですか!?」

いままで学問嫌いの弟がここに来たことはない。どういう風の吹き回しだ?

「それで、アルケタの用事は……」


「それが⋯⋯」

とサンガリアは声を落とした。

「教えてくれないのです。ずいぶん思い詰めた表情でした」


「思い詰めた表情⋯⋯」


「これは内々のことですからと、私が尋ねても教えてくれませんでした」


「それはまさか⋯」

とイオアンは真っ青になった。


アルケタに脱獄計画を気づかれたのか!?


いや、そんなことはありえない。カルハースは突然現れたのだし、屋根裏部屋での密談は知り得ないはずだ。そうか、あのシアという侍女か! あの女が漏らしたのか? 昨夜は私を避けている感じだったし――。


サンガリアが不思議そうに近づいてきた。

「その、まさかとは何でしょう?」


「な、何でもありません!」

とイオアンは慌てて打ち消した。

「それよりダリル殿は、どうしてアルケタの代わりに?」


「調べものに来たら、偶然アルケタ殿に写本室で会ったのです。案内をする学僧たちも忙しそうに見えたので、代わりに私がと⋯⋯私なら、何度も大図書館に来ていますからね」


「ああ、なるほど……それはご丁寧に」

確かに案内なしに一人では、自分を探すのは難しかっただろう。弟に代わってイオアンは頭を下げた。

「では……アルケタに会ってきます」


直接弟に会って真偽を確かめねばと思ったイオアンは、図面を入れた筒を脇にしっかりと抱えると、いそいそと歩き始めた。すると、イオアンにぴたりと付き添って、サンガリアも歩き始めた。


「あの⋯⋯」

とイオアンは立ち止まった。

「ダリル殿は、何か調べものがあるのでは?」


「ああ、これですか」

とサンガリアは紙の束を振ってみせた。

「もう兵站局の帳簿は見つけましたよ。私も出るところですから、写本室まで御一緒しましょう」


「⋯⋯そうですか」

仕方なくイオアンは歩き出した。


大聖堂の天井まで届く書架は、迷路のように不規則に配置されている。これは不届きな閲覧者が、監視役の学僧の目を盗んで、貴重な書物を外に持ち出すのを防ぐためだった。


ふつう学僧でも迷うことがあるのに、サンガリアは最奥の区画にいる私を見つけ出したのだ。よほど記憶力が良いのだろう――とイオアンは驚いていたが、そんなことより気がかりなのは、弟が会いにきた理由だった。


弟のアルケタは、二千人ほどいるイグマスの巡察隊の総指揮官で、捕えた犯罪者を牢獄塔に送りつけることもある。〈暁の盗賊団〉の件にも深く関わっているし、カルハースの計画を未然に察知しても、おかしくはない気がした。


それに、あの楽観的なアルケタが思い詰めているとは尋常ではない。弟はちょっと馬鹿に思えることもあるが、本能的な嗅覚は人一倍すぐれている――とイオアンが眉間に皺を寄せていると、


「先程の図面ですが……」

と隣のサンガリアが口を開いたので、イオアンは吃驚した。

「ず、図面が何か?」


「城の内部のようでしたね」


「そうですか……その、まだ私も、詳しくは確認していないのです……」


サンガリアが、イオアンの顔を覗き込むように質問した。

「あれは、スペクリ城の図面では?」


「スペクリ城……?」

とイオアンは困惑した。スペクリ城はイグマスから百キロ以上離れた場所にあり、東方戦線におけるタタリオン軍の最重要拠点だった。

「それは……なぜですか?」


「まもなくアルケタ殿が、スペクリ城に赴任すると発表されたからです」


「ええ!?」


「聞いていないんですか? 私はてっきり、それで図面を探していたのかと」


「まったくの寝耳に水で……」

とイオアンは狼狽えた表情になった。

「しかし、アルケタは巡察隊の総指揮官です。それがどうして急に他国に……」


「おそらく政治的な力が働いたのでしょう……公妃様が押し切ったようですから」


「ああ、サディア様が……」


「やはりイオアン殿は、何かご存じなのでは?」


「いえ、まったく」

と答えて、イオアンは会話を打ち切った。


サンガリアからの情報で、イオアンは安心したと同時に、新たな不安も感じた。アルケタの用件は脱獄計画ではないようだが、信頼している弟がイグマスから遠く離れるとなると、それはそれで大問題だった。


暗い大聖堂の先に、明るい写本室への入口が見えてきた。机の上に弟が座り、そのまわりに学僧たちが集まっている。何か談笑しているらしい。


カルハースのせいで頭が痛いのに、これ以上問題を増やさないで欲しいものだ。牢獄塔を訪問する前にはっきりさせておこう――。


イオアンは、アルケタに近づいていった。


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