第10話
目を酷使する作業のため、大図書館の写本室の窓は大きく、真夏の日差しで眩しいぐらいだった。部屋に漂うのは蜜蝋と膠、インクと顔料の臭い。
イオアンに気がついたアルケタが、
「兄上!」
と快活に声をかけると、それまで笑い声をあげていた学僧たちは、慌てて自分の机へ戻っていった。
やがて、写本室は羊皮紙を擦る音だけになった。ずっと机に向かっての作業は神経をすり減らす。少しぐらいの息抜きなら、イオアンは咎める気にもならない。
机を飛び降りたアルケタが近づいてきた。
短い金髪に均整のとれた体格。背はさほど高くないが、闇エルフのようなイオアンとは違って、肌は白く、整った顔立ちをしている。巡察隊の皮鎧をまとい、背中には指揮官を表す深紅のマントを羽織っていた。
「どうも助かりました」
とアルケタが、サンガリアに頭を下げると、
「いやいや。大図書館の中は、深い森のようなものですからね、お役に立てたのであれば幸いです」
とサンガリアも頭を下げた。
穏やかな笑みを浮かべたまま、二人が動かないので、
(会いに来た用はなんだ?)
とイオアンはアルケタの腕を掴んで、写本室の脇に連れていった。
二人きりになると、アルケタの表情が暗くなった。
「兄上、少し時間をくれないか……」
「スペクリ城のことか? さっき聞いたが初耳だったぞ」
「それは屋敷に兄上が戻ってこないからだろ。それに赴任するのは二週間後だ。いま話したいのは、それじゃない」
「では何だ?」
「ここでは話したくないんだ」
とアルケタが声をひそめて言った。
「これから、私は用事があるんだが……」
と言いながらも、イオアンは体が汗ばむのを感じた。
「それは、内密の用事なのか?」
「内密で緊急の用事だ」
と頷いたアルケタが、ちらりと遠くのサンガリアのほうへ顔を向けると、さっとサンガリアが顔を背け、学僧たちに近づいていった。
「……だから、外で話したい」
ただならぬ弟の表情に、
「分かった。少しだけ待ってくれ」
とイオアンは告げ、学僧たちのほうへ歩いていった。
スペクリ城でないのなら、やはり脱獄計画に気づかれたのか――イオアンは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
そうであれば、なおさら防衛塔の図面を持っているのはまずい。イオアンは年若い学僧に近づくと、見学しているサンガリアには聞こえないように、
「これを〈フリュネの誘惑〉に届けてくれ」
と図面の入った筒を渡した。
まだ十代半ばの学僧が、目を輝かせて頷いた。
裸の男女が歩き回っている〈フリュネの誘惑〉に向かわせるのは、教育上よろしくないとも感じたが、致し方ない。機密情報を持ったまま、イグマスの町を歩き回るわけにもいかないだろう。
イオアンはアルケタに近づき、頷いた。外へ出ようとしたところで、
「待て、誰か来るぞ」
とアルケタが手で制した。
微かな振動がする。やがてそれは重い足音に変わり、作業に没頭していた学僧たちが顔を上げた。天井から埃が落ちてくる。さらに数人の話し声が聞こえ、外への両開きの扉が大きく開け放たれた。
「こんなところにいたのか!」
そう叫んで、イオアンのほうを睨みつけたのは、禿頭の巨体の男――内務長官のギイス伯爵だった。その背後に、陰気な顔をした密偵たちが立っている。
なぜ、ここに伯爵が!
まさか、私を捕まえに来たのか!!
イオアンは硬直した。
ギイス伯爵が、豪華な服の下にでっぷりとした贅肉を震わせて、のしのしとイオアンのほうへ近づいてきた。
「手間をかけさせおって、やっと見つけたぞ!」
「わ、わ、私は……」
どもりながら口を開いたイオアンに、伯爵は冷たい一瞥を与えると、
「お前ではない。お前の弟のほうだ」
とアルケタを見下ろした。
アルケタは、
「何か私に用ですか?」
とあからさまに不機嫌な顔をしてみせた。
「いつもの場所で会議だ」
「急に困りますね、これから仕事です」
「仕事だと? お前の仕事はイグマスの治安維持であろうが。そのための会議を開くのだ。すぐに始めるぞ」
「いまから……兄と話があるんです」
「馬鹿々々しい。式の打ち合わせか?」
と伯爵は鼻で笑った。
「そんなものは会議が終わってから、夜にでもしろ」
「それじゃ間に合わない。絶対こっちが先です!」
と譲ろうとしないアルケタに、伯爵の脂ぎった顔が怒りに震えたが、視界に入ったサンガリアに向かって、
「ダリル! 何をしておる、お前も会議だ!」
と怒鳴りつけた。
学僧たちの机のあいだに立っていたサンガリアが、
「いったい何の会議です?」
と向き直った。
伯爵が、写本室に響き渡るような大声で、
「もちろん〈暁の盗賊団〉だ!」
と告げた。
サンガリアが溜息をついた。
「例の盗賊団ですか……私は別件を調査中ですので」
「別件だと?」伯爵が顔を歪める。
三人のほうへ近づいてきたサンガリアが、
「武器の密輸の件です。すでに話したはずですが……」
と小声で伯爵に告げた。
「とにかく緊急の案件だ!」
伯爵は、サンガリアとアルケタの顔を見回すと、
「連中の犯行予告が見つかったのだ……北東の城壁に赤く記されていた」
と低い声で告げた。
すると困ったようにサンガリアが、
「あのですねえ伯爵様、以前にも話しましたが……」
と頭を掻きながら主張した。
「そんな盗賊たちは放っておけばいいんです。盗まれたとしても金持ちがしまい込んでる骨董品でしょう? 大局に影響はありません。むしろ市民たちの不満を逸らしてくれている。ありがたいじゃないですか。そんな些事より、武器の密輸のほうがタタリオン家の財政問題に……」
「うるさい!」
と伯爵が叫んだ。
「今回は、いままでとは違うのだ!」
「いったい何が違うんです?」
と今度はアルケタが大袈裟な溜息をついてみせた。
「何度もそう言って、連中に逃げられてきたじゃないですか。盗賊を調べるなら勝手にして下さい。どこかの屋敷に押し入られたら我々は出動しますから、浅はかな憶測で命じるのは、やめにして頂きたい」
「浅はかな憶測だと……」
顔を真っ赤にした伯爵は、いまにも二人を怒鳴りつけそうだったが、フッと笑みを浮かべると、
「だから今回は違うのだ。新たに重要な情報が入った」
と自慢げに告げた。
「新たに重要な情報?」
とアルケタは不信の表情を浮かべた。
「そんなもの、どうやって手に入れたんです」
「それは会議でのお楽しみだ!」
と伯爵は叫ぶと、密偵たちを引き連れ、扉から出ていった。
「アルケタ、遅れてもいいから会議に出ろ。とっておきの新情報だからな!」
天を仰ぐように溜息をついたサンガリアは、イオアンたちに頭を下げると、ギイス伯爵たちを追って、写本室からいなくなった。
唖然としているアルケタに、イオアンが声をかけた。
「どうするんだ?」
「まったく何なんだよ……」
とアルケタは、うんざりしたように首を振ると、
「会議は近衛兵の兵舎なんだ。そこまで歩きながら、さっきの話をしよう」
とまた思い詰めた表情になった。
「兄上……今夜だけは助けて欲しいんだよ」




