第61話
廃墟の寺院の外では、まだ雨が降り続いている。
「すまない」
とエルヴィラが泣きだした。
「ドルシアから話を聞くたびに、誠実なお前なら、僕を救ってくれるんじゃないかと思っていた……」
「……やめてくれ、俺はそんな男じゃないよ」
そう口にしながらアルケタは、エルヴィラの肩を抱いた。どうしたらいいのか自分でも分からない。
彼女の話には心をかき乱された。伯爵家に生まれ、恵まれた自分とはまったく違う人生だった。まだ大人にもなり切れていない少女時代に、いちばん大切なものを奪われ、いまでもその傷に苦しんでいる――。
エルヴィラが膝のあいだに頭を埋め、再び嗚咽した。彼女の震えが、腕を通してアルケタにも伝わってくる。
短く切った真っ白な髪。
丸めた背中。
赤いマントの上の尻からすらりと伸びた太腿。
抱え込んだ腕に隠れて、エルヴィラのふっくらとした乳房は見えない。
アルケタは焚火を見つめているが、意識してしまうのは、隣のエルヴィラの体の柔らかさと温かさと息遣いだった。
何を考えているんだ!
彼女を抱きたいと思うなんて!
アルケタは力任せに木像の腕をへし折ると、燃え盛る焚火に投げ込んだ。
ああ、どうしたらいいのか自分でも分からない!
顔を上げたエルヴィラの目からは涙が流れ、頬を伝い、白い胸に落ちていく。
いつもの気丈な姿とは異なり、雪の妖精のようなエルヴィラは、とても儚げで傷つきやすく、いまにも焚火の炎で溶けてしまいそうに思えた。
なのに、俺の欲望は収まらない――。
その荒々しい衝動を何とかしたくて、アルケタはダゴン教の木像を次々に焚火の中に放り込んだ。ぎょろりとした目に半開きの口。背びれ尾びれが生え、鱗に覆われた体。魚人たちの体に火がつき、ぱちぱちと燃え始める。
ますます焚火の炎が強くなり、火の粉が天井を焦がした。あまりの火の勢いに、エルヴィラが驚いたような顔をした。
「そんなに燃やさなくても……」
「他にワインは?」
アルケタは空の革袋を持ち上げてみせた。
「一滴も残ってない。ふたつとも飲み切っちゃったよ」
「えっ、それは飲みすぎだよ! 一杯でも効果は十分なのに……」
「効果? 何の薬が入ってるんだ?」
「そ、その……」
とエルヴィラは目を逸らした。
「アルメディオンの棚からいろいろ……彼は昔、医学の道を志していたんだ。だから薬も常備していて……」
「アルメディオンの話はどうでもいいだろ! 体が熱くてたまらない。いますぐ外に飛び出して、嵐の中でも駆け回りたい気分なんだ。何とかしてくれよ」
「何とかしてくれって……催淫効果があるマンドレイクの粉とかが入ってる。それ以上飲んだら気が狂っちゃうよ」
「そんな媚薬をどうして俺に!?」
「そうじゃない、僕が飲むためだったんだ! そうでもしないと僕は勇気が出ないと思って……」
「……勇気ってなんだ?」
「だから、抱かれるために、お前を誘う勇気だよ!」
とエルヴィラは叫び、泣きじゃくった。
「それでワインに入れて、自分で飲もうとした。そうしたら、お前が勝手に飲んじゃって……」
「他には何が入ってる?」
「ほとんど薬草園で手に入るから、そんなに危険じゃない」
とエルヴィラは早口になった。
「シナモン、カルダモン、生姜に蜂蜜……高いのだとサフラン、クローブ、ナツメグ。それに、今日のために特別なのも入れてみたんだ。竜涎香、犀の角に、スミロドンの陰茎とか。でもほんの少しさ、効果が強いみたいだから」
「それが、すべてあのワインに……!?」
「……お前のために作った薬は違うけど」
「あれも全部飲んだぞ! あっちには何が?」
「気分をリラックスさせるためのものさ。ほら、お前は真面目そうだろ……」
「それで中身は?」
「ほとんど変わらないはず」
とエルヴィラが思い出す表情になった。
「ベラドンナとか、カノコソウとか、ケシなんかが多めに入ってる。これは尋問のときに使う薬なんだって。だから僕は喋れたんだ。普通だったら絶対に明かさない秘密だったから……」
「そうか、それでか……」
ようやくアルケタは合点がいった。悪い竜を倒してお姫様を救うなどという子供じみた話を、どうしてエルヴィラに熱く語っていたのか不思議に思っていたのだ。
「エルヴィラ、いままでも君はこんなことを……」
「違うよ、信じてくれ!」
とエルヴィラが真剣な眼差しで訴えた。
「他の男にこんなものは作らない! 背中の竜をやっつけられるのはお前しかいない……そう僕は信じたから、この機会を逃したくなかったんだ。昨日の夜から寝ないで作った。できあがったのは夜明け頃さ。そう、大変だったよ……」
「じゃあ、これが初めての……?」
「うん……」
とエルヴィラは恥ずかしそうに頷いた。
「初めて誰かのために調合した」
「けど、どうやって作り方を知った? まさかアルメディオンが協力……」
「違うよ! ぜんぶ自分ひとりで作ったんだ。誰にも頼ってない!」
とエルヴィラが抗議した。
「そういうレシピが載った本を調べた」
「そんな本を君は集めてるのか……」
「そんな目で見ないでくれ、アルケタ! あれは呪術師が贈ってくれたんだ。ほら刺青を入れたときの。いつか必要になる日も来るだろうって。僕はまさかと思ったけど、捨てなくて本当に良かった……」
「そういうことか……」
アルケタは、エルヴィラの肩を掴む力を緩めた。
「ようやく、自分がどうしてこんな気持ちになるのか分かったよ……」
「……じゃあ、もう収まった?」
「ぜんぜんだ! ほらっ!」
とアルケタは自分の胸に、エルヴィラの手を押し付けた。
「ほんとだ。凄く速い。心臓が胸から飛び出しそうだ。それに、こっちまでこんなに固くなっちゃって……どうにかしてあげたいんだけど……」
「頼む、俺をどうにかしてくれ……」
顔を寄せたアルケタが、エルヴィラの唇を奪おうとした。
「だから駄目だって! 僕がお前を殺してしまうと警告しただろ!」
とエルヴィラは強く押し返した。
「ふっ、誰だろうといまの俺を殺せるはずがない……」
そう呟くと、アルケタはエルヴィラの顔を引き寄せ、強引に口づけをした。
「ああ駄目だよ、まだ準備ができていない……」
体をくねらせたエルヴィラが、アルケタの腕から逃れようとするのだが、アルケタがエルヴィラの体じゅうに唇を押し付けた。
「どうしたら君をその気にできる? なんだってする……」
「じゃあ、荷物から予備のワインを……」
「予備のワイン?」
「催淫効果のあるほうを作り過ぎたんだ。それを飲めばきっと僕も……」
「俺を受け入れてくれるか?」
「……たぶん」とエルヴィラは顔を赤くした。
体を起こしたアルケタが、革袋からワインをカップに注ぐと、エルヴィラの前に差し出した。彼女はちらりとアルケタを見てから、決心したようにグイッとワインを飲んだ。アルケタがさっと注ぎ、エルヴィラは二杯目を飲み干した。
さっそくアルケタが覆いかぶさろうとすると、
「まだだよ! 効くまで少し時間がかかるんだ!」
とエルヴィラが叫んで、離れたところで横になった。
「お前もそこに……」
とエルヴィラが隣で寝るように指示をする。
「それまではこうしていてくれ。もう少ししたら気分も高まってくるから」
二人は床の上に乾いた服を敷き、横になって手をつないだ。アルケタが横を見ると、エルヴィラが暗い天井を見上げていた。外からは雨の音だけ聞こえる。しばらくすると、エルヴィラがアルケタの手を強く握りしめた。
アルケタがエルヴィラの顔を覗き込むと、彼女の目は潤んでいた。
まだ怖いのか、それとも別の感情なのか。
アルケタは彼女の頬から涙を拭うと、そっと唇を重ねた。
「もう僕は自分をコントロールできない」
とエルヴィラがアルケタの耳元で囁いた。
「たぶん悪い竜に乗っ取られてしまう。二度と竜が歯向かわなくなるぐらい、僕を滅茶苦茶にしてくれ……」




