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第60話

ナナが何ごとか囁くと、イオアンが祭壇の上で片膝をつき、頭を下げた。


地下神殿は静まり返り、盗賊も子供も息をひそめて祭壇に目を向けている。ナナを首領に戴いてからの数年間、このような儀式を受けた者はいなかった。


「止めなくていいのかよ」

と祭壇を見上げているエルが囁くと、


「我々がどうこう言うものじゃない。これはイオアン君の決断だ」

とカルハースは首を横に振った。


ナナがイオアンの前で立ち上がると、水盤から海水を掬い、イオアンの頭にポタポタと垂らした。


「イオアンよ、汝《なんじ》を我の僕《しもべ》に任ず」

とナナが厳かに告げた。


数秒後、イオアンが顔を上げた。

「これだけか?」


ナナが頷いた。

「これで契約は結ばれた。さあ、行くがよい」


イオアンは力が抜けた。ダゴン教の契約なら、もっと謎めいてるとか、奇妙なものだろうと予想していた。例えば頭にタコを乗せられるとか――。


階段を降りたイオアンが振り返った。

「なぜ私を選んだ?」


「……なぜとは?」

イオアンを見下ろしているナナが怪訝な顔をした。


「下僕にするなら、他に相応しい者がいるだろう。私は病弱だし、従順とも言えない。総督府の情報を知りたいのなら、もっと適任者がいるはずだ」


「いいや、お前でなくてはならない」

とナナが告げた。

「だからこそ、ニナを使ってお前と接触したのだ。いずれその理由を話すだろうが、今日はもう十分だ。我は疲れているし、お前も一度には消化しきれまい。次回、我の下僕として会うときには教えよう……」


鐘の音が鳴り響いた。


蛸の石像の上から、シトルウィンたちが床に降りてきた。がやがやと盗賊たちも祭壇から離れ、それぞれの場所に散らばっていった。


エルが近づいてきた。

「イオアン様、本当に良かったのかよ?」


「分からない。だが、私しか知りえない情報を知っていた」


「その情報って?」


イオアンが答えずに、祭壇に目を向けると、斥候役がナナに報告していた。

「……まだ二匹は激しく戦っています」


ふっと笑ったナナが、イオアンに声をかけた。

「帰るのはもう少し待て。野獣に見つかるといけない」


「野獣?」


「盛りのついた獣がいるのだ」

微笑したナナが、エルに視線を向けた。

「お前の望みも叶えてやる。最近困ってることがあるであろう」


「お、俺は下僕になんかならないぞ!」


「お前ごときは、我の下僕に値しないから安心せよ。それより眠れているのか? ずいぶん目の下の隈が酷いな、改善してやろう」


「……ほんとに治せるのか?」


「もちろんだ。ここまで上がってこい」


エルはびくびくしながら階段を上がり、水盤の前に立ったが、裸のナナを見ると目を逸らした。


「もう悪夢を見ない? 怖くてぜんぜん寝られないんだ。だから昼間も集中できないし、いっつも苛々して……」


「そんなものは一瞬だ。我の目を見よ」


ナナの黒い瞳を見つめたエルは、どさりと床に崩れ落ちた。完全に気を失い、水盤の前で伸びている。


「首飾りを取り出すのだ」とナナが命じた。


屈み込んだフィオナが、エルの胸元に手を差し入れた。〈綺麗な首飾り〉を取り出すと、恭しくナナに手渡す。


「それは私の物だぞ!」

驚いたイオアンは祭壇に駆け上がろうとした。


「もちろん分かっている」

ナナが首飾りをイオアンのほうに掲げてみせた。

「だが、しばらく預からせてもらう。これからお前との関係も変わるからな。首飾りの魔力も調整する必要がある」


「調整する? その仕組みを分かっているのか?」


「お前が思っている以上にな。首飾りは次の面会で返すから安心しろ。さて次は髑髏の仮面、お前だ」


「わ、私のことか?」

まったく予期していなかったカルハースは、たじろいだように後ずさった。

「私は何の望みもない、放っておいてくれ!」


「そうじゃない、お前が代償を支払うのだ」


「代償だと? なぜ私が?」


「我がダマリの脱獄を手伝うのだ。イオアンは下僕になった。当然、お前にも支払ってもらう」


「我々〈首なし騎士団〉は誰の下にもつかないぞ!」


「分かっている。貢物でよい」


「貢物? いまは懐が寂しいのだ。その、ダマリの保釈金のせいで……」


「金など要らぬ。お前たちのところに、セウ家の奥方のドレスがあるであろう」


「ああ、あれか! 女装したエルが逃げ出したときに着たものだな。本当にあれでいいのか?」


「帝都でつくられた特注品だからな」


「しかし……あれはエルのものだからな。未来の花嫁との結婚式のために大事にしているみたいなんだ。その大切な夢を奪うのはちょっと……」


「エルがいつ出会えるかも分からぬ花嫁と、いま地下牢に囚われているダマリのどちらが大切なのだ?」


「そう言われると返す言葉もない……」


「明日の朝までに用意しろ。我の配下が引き取りに行く」


「明日の朝か。それはちょっと難しいな」

とカルハースが渋った。

「夜通し馬を飛ばさないと、隠れ家からイグマスに戻ってこられないのだ。私としては、今夜は明日に備えてゆっくり寝たいんだが……」


「こっちへ来い。よく眠らせてやる」


「いや、それは結構だ」


盗賊たちが、抵抗するカルハースを祭壇の上に抱えて運んだ。カルハースは何とか目を閉じようとしたが、無理やり瞼をこじ開けられ、ナナの黒い瞳に吸い込まれるようにして意識を失った。


エルの隣で、死体のように伸びているカルハースを見て、イオアンが尋ねた。

「私にもかけるつもりか?」


ナナは少し考えてから、

「お前は我の下僕だ。この場所を漏らすことはあるまい」

と答えた。


イオアンは残念に思った。むしろ、ぐっすりと眠らせてほしい――できることなら催眠術でもかけてもらい、ここで起きたことを忘れたかった。


イオアンは地下神殿を見回した。そろそろ夕食なのか、盗賊たちは食事の用意を始めている。ナナという存在がいる世界が、彼らにとっての日常なのだ。もしニナと再び出会えたとしても、自然に言葉を交わせるか自信がなかった。黒い瞳の奥には、ナナという別人格が潜んでいるかもしれないのだから。


「どうした、浮かない顔だな」

薄紫色のドレスを着たナナが近寄ってきた。


十二歳の少女には大きすぎるドレスは、だらりと袖が垂れ下がり、裾は尻尾のように引きずられている。フリルが過剰についたドレスは、素朴な顔立ちのナナには似合わないと感じたが、本人は気にしていないようだった。


「明日はアルケタの婚約式であろう。大いに楽しむがよい。終わった頃にはダマリを引き渡してやる」


「どうやって牢獄塔に侵入するつもりだ?」


「どうやって? 入口からに決まっている。計画通り警備が手薄であれば、我とニゲルだけで用は足りる」


「たった二人でか!?」


「ふふ、心配するな、我に任せておけばよい。ほら、爺に送らせよう」


ガラガラと荷車が近づいてきた。エルとカルハースが丸太のように荷台に転がっていた。気持ちよさそうにいびきをかいて、完全に熟睡している。


イオアンが眉をひそめた。「ちゃんと起きるのか?」


「水でも浴びせれば、ぱっちり目を覚ますわい」

と御者台の骨董商のドワーフが答えた。

「〈フリュネの誘惑〉まで送り届ければいいのかね?」


「いや……」

イオアンは約束を思い出した。

「魔物博物館まで送ってほしい、分かるか?」


「イグマスの魔物博物館か? 閉鎖されてるはずじゃろ。あのあたりは物騒なところだがいいのかね?」


「シアと会うのか?」とナナが訊いた。


「なぜ、それを知っている?」

とイオアンは驚いた。

「シアはニナと知り合いだが、お前のことは……?」


「もちろん知らない。いろいろ探りは入れてるようだがな。ある意味お前たちは似ている。大きな歯車だ」


「歯車? 何のことだ?」


「ドワーフが作った機械仕掛けの装置があるであろう。大小の精密な歯車が噛み合って、最終的には人間が真似できないような働きをする。お前たちも帝国の運命という巨大装置の歯車なのだ。それも重要な」


イオアンは目を細めた。

「今回の下僕の契約も脱獄の協力も、その歯車を回すためなのか? いったい何を考えている……?」


「お前のことならよく分かる。だがシアのほうは……」

ナナは顔を曇らせた。

「彼らも計画を立てているのだが、霧に覆われて我には見通せない……まあいい、それは次回にでも話そう」


イオアンは御者台に昇った。老人がロバに合図すると、荷車は暗い通路に向かってゆっくりと動き出した。


イオアンが振り返ると、集まった盗賊たちが見送っていた。シトルウィンという若い女、ニゲルという闇エルフ、優しいフィオナという少女。そして、いちばん前には、大きすぎるドレスを着たナナの姿――。

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