第59話
下僕だと……!?
イオアンは呆然とナナを見つめた。彼女は祭壇の水盤から立ち上がり、傲然と自分を見下ろしている。
やはり、本当にニナではないのか?
命令するのが当然だという口調、感情を露わにしない冷たい眼差し――やはり、屈託のない笑顔を見せるニナとはまるで違う。
別の人格、別の存在として認識しなければ――。
「もし、お前の下僕になれば……」
言葉にするだけでも生理的な嫌悪感を覚える。
「本当にニナは、いままで通りイグマスで暮らせるのだな?」
「ダゴンに誓って約束しよう」
笑みを浮かべたナナは再び水盤に浸かった。
「盗賊たちの庇護はなくなるが、初めてイグマスにやってきた三年前とは違う。もうニナも十二歳だ。じゅうぶん路上で自活できる」
「ちょっと待って!」
とシトルウィンが上から呼びかけた。
「じゃあ、これから私たち、あなた無しでやっていくことになるの?」
「お前たちはダゴンの信徒ではない」
水盤のナナは首を反らし、蛸の石像を見上げた。
「我らは仲間ではあるが、お前たちには、お前たちのやるべきことがあるはずだ。必要であれば連絡は取れる。問題はなかろう」
「でもよ、ナナの下僕になるんだから……」
ニゲルは首を傾げた。
「イオアン様も俺たちの仲間ってことだろ? そんな簡単に入れるのか?」
「イオアンは、お前たちの仲間にはならない」
とナナは答えた。
「性質が異なるのだ。お前たちと我は対等な関係だ。互いに協力し、ときには拒否することもできる。だが下僕であるイオアンは違う。我の命令を拒否することはできない。これは契約なのだから」
「まだ、お前の下僕になったわけじゃねえだろ!」
エルが祭壇の下から怒鳴った。
「イオアン様、あんな奴の言うことを聞いちゃ駄目だ。あれはニナじゃない、別の化け物だよ!」
「エルの言う通りだ」
とカルハースもイオアンの肩を揺すった。
「理屈を聞いても頭がおかしくなるだけだぞ。こんなところに用はない。早くイグマスに戻って、ダマリを助け出す準備をするんだ!」
すると、ナナがふたりに呼びかけた。
「ダマリの脱獄なら手伝ってもよいぞ。イグマスを去るには時間がある。もしイオアンが下僕になるのなら、その可哀想なオークを救出してやろう」
カルハースが振り返った。
「それは本当か! ニナ、いや、ナナ?」
「我の実績はよく知っているだろう。あんな牢獄塔など障害にすらならぬわ」
カルハースが考え込んだ。
「だからこそ、イオアン君が仲間に引き入れようとしたのだしな……」
「なに言ってんだよ!」
とエルが叫んだ。
「ダマリのためだからって、イオアン様を下僕にしていいのかよ!」
「それはそうだが、ううむ……」
カルハースが期待するように、視線をイオアンに投げかける。
「どうする、イオアン?」とナナが促した。
「もし、私が下僕になったとして……」
イオアンは、地下神殿にいるすべての者たちの視線が集まるのを感じた。
「いったい何をするんだ?」
「特に決まったことはない。いままで通り大図書館の館長としての責務を全うしていればよかろう。お前もニナと同様、日々の暮らしは変わらない。強いて言うのなら、欠かさず我に会うことぐらいだ」
イオアンは拍子抜けした。
「お前に会う? どれぐらいの頻度だ」
「週に一度、いや……三日に一度ぐらいが望ましい」
「本当にそれだけなんだな?」
「そう、顔を見せるだけだ。あまり仰々しく考えるな。主人と使用人など、どこにでもいる関係であろう。お前自身、ニナを雇っていたではないか?」
「それはそうだが……」
確かに、定期的な面会なら負担は少ない。しかし、そのために自分の下僕になれと契約を迫ったりするだろうか? そのうえ、ダマリの脱獄まで手伝おうと申し出てきたのだ。何か絶対に裏があるはずだ……。
用心深くイオアンが質問した。
「もし、この申し出を断ったらどうなる?」
「我は予定通り、シトルウィンたちと山に戻るだけだ」
ナナは肩を竦めた。
「その代わり、ニナの存在は日々薄くなっていくであろうが、まあ、お前の前から、ひとりの貧しい物乞いが姿を消すだけのことだ」
イオアンは唇を噛んだ。
「そうやってお前はニナに寄生し、乗っ取っていくつもりなんだな」
「では、お前の勘違いを正してやろう。我とニナは、巫女として生まれた双子だった。そして妹のニナは不吉だとして、本来殺されているはずだった……」
ナナが水盤から身を乗り出した。
「分かるか? ニナが消えても本来の流れに戻るだけなのだ。だが、その運命を変えられるのは、イオアン、お前だけなのだぞ」
「もし契約したとして……」
イオアンはごくりと唾を飲み込んだ。
「あとから契約を破棄することはできるのか?」
「できる。両者の合意があればな。しつこいようだが、その時点からニナは我によって蝕まれていくぞ。それと、公平を期するためにも約束しよう。もし我がダマリの救出に失敗したら、この契約は無しにしてもよい」
カルハースとエルが、イオアンを見つめている。
「ここまで譲歩しても決心がつかないのか?」
ナナが薄く笑った。
「疑い深いお前らしいが、別に悪魔と契約するわけでもあるまい。お前のことはよく分かっている。我は、お前のためを思って提案しているのだぞ」
十二歳の少女に呆れたように諭されたイオアンは、
「お前に、私の何が分かるというんだ……」
と苦々しげに呟いた。
「では、お前にその証拠を教えよう。ここへ来い」
とナナが手招きした。
「そこで話せ」
「あまり大声で話す話題ではないのだよ」
とナナが微笑した。
「我とて人並みに作法というものは心得ている。いいから祭壇に上がれ」
大勢が見守るなか、イオアンは祭壇に上がった。ナナがフィオナに離れるように命じ、イオアンには屈むように命じた。仕方なくイオアンが水盤の正面で片膝をつくと、ナナが耳元で囁いた。
「お前は不能であろう……」
驚いたイオアンがナナからさっと身を引くと、ナナが再び手招きした。
「下僕になるのであれば、手助けできる」
「手助け……?」
「いますぐは無理だが、いずれ充実した夜の営みも可能になるであろう」
「私の呪いを解除できるのか……!」
「あれは呪いではないぞ。それはそれで機能しているものなのだ」
「……そうなのか?」
「お前とて、ひとりの健全な男として人生を謳歌してみたいのではないか?」
イオアンは目を閉じて、気持ちを落ち着かせようとした。人の弱みに付け込む甘い言葉に負けてはならない。だが、次に発するひと言で、自分だけでなく、ニナやダマリの運命まで決まってしまうかもしれないのだ――目を開けると、ナナの黒い瞳がじっと見つめていた。
私は信じるべきなのか?
この少女を?
静かに息を吐き、イオアンは決心した。
「……どうしたら契約できる?」




