第58話
廃墟の寺院の地下深く――。
巨大な蛸の石像の前には祭壇があり、その上に置かれた蓮の形をした水盤では、深緑色の髪、黄緑色の肌をした裸の少女が、タコを頭に乗せて、気持ちよさそうに浸かっている。
「イオアンよ……」
タコの触手の奥から、冷たい声が聞こえた。
「……我はナナだ。よく覚えておけ。お前が知っているニナはもういない」
「な、何を言ってるんだ、ニナ……」
祭壇に上がろうとしたイオアンを、カルハースとエルが引きずり下ろす。
イオアンは悪夢でも見ているのかと、恐る恐る周囲を見渡した。盗賊たちは崇めるような視線を幼い少女に向けている。異教徒の地下神殿が生み出す異様な力に引きずり込まれているのではないか?
タコを乗せたまま、ナナが顔を上へ向けた。
「それで、問題は何だ?」
シトルウィンが困った顔をした。
「意見が割れてるの。彼らを手助けするのかどうか」
「話は聞いていた。協力はしない」
「ほらね」
とシトルウィンが自慢げに頷くと、
「えー、何だよ。ナナが好きそうなことだろ?」
とニゲルは残念がった。
「そういう問題ではない。時間的に不可能なのだ。我々はできる限り早くここを引き払い、イグマスから離れなければならぬ」
「えっ、どういうこと?」
とシトルウィンが驚き、盗賊たちもざわついた。
「離れるといっても、これだけの大所帯なんだから時間もかかるのよ」
「ニゲルが悪い」とナナ。
「え、俺かよ?」
「お前はやり過ぎたのだ。ほとぼりが冷めるには時間が必要であろう」
「やり過ぎたって、あの密偵か!」
「趣味に走り過ぎたな。市民たちの好印象まで失われてしまったではないか」
「でも、あいつがフィオナを泣かせたから……」
ナナの隣に立っているフィオナに、盗賊たちの視線が集まった。いたたまれない様子で俯いた彼女は、やがて屈み込み、すすり泣き始めた。
「少し見た目がいいからって、悪い男に騙されるほうが悪いのだ」
というナナの言葉に、ニゲルが憤った。
「でもよ、あの色男が堕ろさせたんだぜ!」
「とにかく、我々は背骨山脈に戻る」
ナナが手を伸ばし、フィオナの頭に優しく触れた。
「お前たちもこんな陰気な場所より、静かな森のほうが居心地が良いであろう」
イオアンが祭壇のナナに向かって叫んだ。
「待て、ニナはどうなる!」
「どうなるとは?」
「イグマスに戻ってくるのか?」
「戻るはずがなかろう。我もここを去るのだから」
「何だと! お前は何者だ! ニナを乗っ取る気か!」
「乗っ取るも何も、ニナは我がイグマスで活動するための仮面なのだ。お前たちと接触するためのな。ここを離れたら不要になるだけだ」
ナナの言葉にイオアンは慄然とした。
ニナが仮面だと?
では、このナナという娘が本物なのか?
いままでのは演技だというのか?
いや、そんなはずはない。ニナの笑顔は本物だった――。
黙り込んだイオアンに、
「心配するな、ニナという存在がいなくなるわけではない」
とナナが声をかけた。
「お前は……亡霊か何かか?」
「失礼極まりない発言だが許してやろう」
とナナが口元を歪めた。
「我は実体として存在する。ただし動きやすい肉体としてニナを確保している」
「つまり、お前は生霊だな……そしてニナの体を乗っ取ろうと……」
「我が乗っ取るだと!」
ナナが頭のタコを掴み、水に叩きつけた。
「ニナはとっくに死すべき定めだったのだ! それを、我が手を回したからこうして生きている。お前ごときにとやかく言われる筋合いはない!」
本当なら死んでいた……どういうことだ?
このナナと自称する少女と、ニナはどういう関係なんだ? もしや私は数年間、幽霊を相手に話していたのか?
「イオアンよ」
ナナが水盤から立ち上がった。
「そもそも今回の発端は、お前自身にあるのだぞ……」
「私……だと?」
「晩餐会で酔ったお前は、待伏せをニナに漏らしたであろう。それで我らは〈鼬〉の存在に気づいたのだ」
思い出したイオアンは真っ青になった。
そうだった!
ニナに〈暁の盗賊団〉の調査を中止させるため、その理由を伝えたのだ――。
イオアンは、がくりと床に膝をついた。
すべては私のせいなのか? アルケタが待伏せに失敗したのも、ニゲルという男が〈鼬〉を殺したのも、そしてニナが消えてしまうのも――呆然としているイオアンに、ナナが皮肉な微笑みを投げかけた。
「だから、お前には感謝している。待伏せから我らを救ってくれたからな」
感謝だと?
この私に何の価値があるというんだ?
やることなすこと、すべてが裏目に出てしまう――。
イオアンの目の前では、親切だったフィオナという少女がまだ泣いている。
優しいあの子のお腹には新たな命が宿っていたのだ。私が口を滑らせてしまったばかりに大切なものを奪ってしまった。やはり私など存在しないほうがいい――イオアンの視界がぐるぐると回り始める。
「イオアン様、大丈夫か!」
エルが駆け寄り、イオアンを抱き起こした。
「ただの不幸な偶然だ」
とカルハースも声をかけ、盗賊たちに向かって叫んだ。
「もう用は済んだろう! ここから解放してくれ!」
「お前にとってニナは大切か?」
二人に抱きかかえられたイオアンを、ナナがじっと見つめている。
「望むのなら、いままで通りニナを生かしてもいい」
「だが、ここから離れるんだろ?」
「いや、イグマスで暮らすことができる。我も残ればな……ニナは何も変わらず物乞いの少女として生き、いままでのようにお前に会えるであろう。ただし条件がある。これからお前は、我と契約を結ぶのだ」
「お前と契約だと?」
イオアンが警戒する表情になった。
「いったい、どんな契約を私にさせる気だ?」
ナナが微笑を浮かべた。
「お前は、我の下僕になるのだ」




