第6話
一日の仕事を終えたシアは、〈フリュネの誘惑〉から外に出た。
もう真夜中近くで、いつもは賑やかな〈浴場通り〉も静かだった。夜風が涼しく心地よい。ときどきシアはこうして外に出ては、一人きりになるのだった。
見上げると、雲が流れて大きな月が見えた。
明日の前夜祭から〈死者の日〉の祭りが始まる。娼館にとっては、かき入れ時で忙しくなるだろう――そんなことを思いながらも、シアの心を占めていたのは、エルという少年の泣き顔だった。二人のあいだに何があったのかしら?
少年は、無理やり服を脱がされたように見えた。
あれはイオアン様が強制したってこと? 同性が好きな人がいるのは分かるけど、無理強いはいけないわ。あの方はちょっとおかしい気がする。
シアは唇を噛んだ。
やっぱりイオアン様は、私が望んだ方ではないのかもしれない。真面目な方だと思っていたのに、ヴィヨルンド様を家畜のように縛り上げるなんて!
だめよ、人を性癖だけで判断してはいけないわ。
とシアは反省した。
そうルマンディア様にも何度も注意されてきた。人の愛には、さまざまな形があるのだからと――そうよ、私の目に狂いはないはずだわ。あの方がきっと私たちを救ってくれるはず。
本当にイオアン様を信じていいのかしら?
今夜、話せたのは良かったけど、顔も見られてしまった。
でも大きな一歩よ。
とうとう狙っていた相手に接触できたのだから。
あとは、イオアン様がふさわしい人物なのか見極めるだけだけど、ゆっくりもしていられない。お祖父様の計画は、こうしているあいだにも進んでいるのだから。取り返しのつかない段階に進む前に止めないと――。
〈フリュネの誘惑〉の入口にあるポーチで、物思いにふけっていたシアは、視界の隅に人影を捉えた。そっと立ち上がって階段を降りると、脇に少女があぐらをかいて座っていた。その前に硬貨が置かれた小皿がある。
ニナだわ――。
ニナはシアの知り合いだった。女主人のルマンディアの許可を得て、ときどき〈フリュネの誘惑〉の前で物乞いをしているのは知っていたが、いつもなら夕方までで、夜にはいなくなっていた。
ニナの頭はこくりこくりと舟を漕ぎ、寝ているように見える。
「ニナ……」
シアは彼女の前で屈むと、軽く肩を揺すった。
ゆっくりとニナが目を開けた。
いまは暗くて分かりにくいが、沼人であるニナの肌は薄い黄緑色で、おかっぱの髪は深緑色である。沼人たちはふつう海辺や沼地で船上生活を営んでいるので、ニナのように街中で物乞いをするのは珍しかった。
目の前にいるのが誰だか分かったニナは、
「シア?」
と嬉しそうに眠い目をこすった。
「どうしたの。寝過ごしちゃったの?」
「ううん、イオアン様を待っているの。お仕事があるかもしれないから、今週はここにいてくれって」
「イオアン様の仕事?」
「そう!」
とニナは笑顔になった。
「私、いろんなことを調べるのよ」
「調べるって、いったい何を調べるの?」
「それは内緒! 人の後をつけたり、町の噂を集めたり……」
「そんなことをしてるの!?」
「そうよ! この前は未亡人のお屋敷の前で、一週間見張っていたの。そうしたら偉そうな騎士の人がこっそり訪ねてきたのよ。イオアン様に報告したら、大手柄だって褒めてくれたわ!」
「ニナ……」
改めてシアはニナを眺めた。ぼろぼろの服を着て、体も小さい。まだ十二歳ぐらいだろう。
「そんなこと断ったほうがいいわ」
「どうして?」とニナが不思議そうに訊いた。
「どうしてって……イグマスだって危ないもの」
「危なくなんかないわ!」
とニナは言い張った。
「だって気をつけてるし、私みたいな物乞いなんて、いっぱい町じゅうにいるから、誰も気にしないもの!」
「そうかもしれないけど、人の秘密に立ち入るのは良くないことよ。もしお金に困っているのなら、少しぐらいは私が……」
「お金なんて欲しくないもん!」
とニナが泣き出した。
「私だってお仕事はできるのに……自分の力で稼ぎたいだけなのに……」
「ごめんねニナ、そういうつもりじゃないの!」
とシアは慌てて謝った。
「ただ気をつけて欲しいのよ。でも、小さな女の子にそんなことをさせるなんて、やっぱりイオアン様は異常だわ……」
「何が異常だって?」
驚いたシアが顔を上げると、ポーチの上からイオアンが見下ろしていた。




