第5話
薄暗い屋根裏部屋は、イオアンとエルだけになり、気まずい雰囲気になった。
いまの状態について、いきなり質問するのはどうかと思い、
「あれから、ブッケルムの調子はどうだ?」
とイオアンは切り出した。
ブッケルムはひと月前、エルがセウ家の屋敷から盗み出した軍馬である。
「調子はいいよ。ちゃんと餌も食べてるしさ」
とぶっきらぼうに答えたエルは、
「他の馬と喧嘩することもないし、隠れ家のまわりを楽しそうに走ってる。やんちゃ過ぎて困るぐらいさ。さすがは〈魔の馬〉だな」
と表情が柔らかくなった。
「それで……お前のほうはどうなんだ?」
「……どうって何さ」
またエルの目付きが鋭くなった。
「顔色が悪い」
「べつに悪くないよ」と顔を背ける。
「ちゃんと寝れてないんじゃないのか」
「……」
「頭の中で声が聞こえるんだろう? そして、いつも誰かに見張られているような気がする……」
「どうしてそれを!?」
エルがイオアンを見つめ、それから床に目を落とした。
「……ずっと気持ちが休まらないんだ」
「そうか。私も同じだったからな、よく分かるよ」
「同じ? じゃあ、どうしたらいいんだ!」
「お前も分かってるんだろう? 〈綺麗な首飾り〉を外すんだ」
エルがイオアンをじっと見つめ、イオアンも視線を受け止めた。数秒後、エルは黙って目を逸らした。
〈綺麗な首飾り〉というのはセウ家の至宝であり、伯爵の称号を受け継ぐ証として、イオアンは子供の頃から身に着けていた。極めて強大な魔力を秘めていると伝えられている。あまりにも古くから存在しているので、本当の名前は忘れられ、いまはただ〈綺麗な首飾り〉と呼ばれていた。
ひと月前の二人の「冒険」ののち、別れ際にエルは鮮やかな手口で、この〈綺麗な首飾り〉をイオアンから盗んだのだった。少なくとも、首飾りを失ったことに気づいたイオアンは、そう信じている。
「私に渡すんだ。そうすれば、お前は元通りになれる。ほら、この通りだ」
とイオアンは、その場で跳ねてみせた。
「あの日、お前に盗まれてから、すこぶる調子がいいんだ。夜もぐっすりと眠れる。食事も美味い。何かしようという前向きな気持ちが起きる。さあ、お前も私のようになりたいだろう?」
「……そんなふうになりたくない」
とエルは、未開の土地の部族のようにピョンピョン跳ね続けているイオアンに、不審の眼差しを向けた。
「それに、せっかく手に入れたんだ……」
「しかしエル……」
イオアンは跳ねるのをやめた。
「あのとき私から盗んだのは、自分のものにするためだったのか? そうじゃないんだろう?」
「うん。あのときは……」
と思い出したエルは、少し優しい表情になった。
「イオアン様は首飾りに縛られて、苦しんでるように見えた。だから助けようと盗んだ……でも着けてみたら、外したくなくなってきたんだ」
「そうだ。その首飾りにはそういう力がある。そのまま身に着けていると、いずれお前は破滅するぞ」
「そんなことないさ……」
とエルが弱々しく笑った。
「イオアン様だって、何年も身に着けてたんだろ」
「十年ほどな。だが私はエルフだ。魔力への耐性が強い。しかし、そうではないヒトのお前は、後戻りができなくなってしまう」
「あ、後戻りができなくなるって?」
とエルは怯えたように訊いた。
「私も詳しいことは言えないが、人格を乗っ取られるかもしれない。首飾りの命令に、人形のように従うようになるんだ」
「そんなの嫌だ! どうしたらいいんだよ!」
「だから、私に返せばいい」
「だけど、俺にはできないんだ」
とエルがうなだれた。
「カルハースにも打ち明けようと思ったけど、俺の何かが拒んだ。自分の意志じゃどうにもならないんだよ……」
「では、私が手伝おう」
イオアンがエルに近づくと、エルは後ずさった。
「イオアン様には……もう別の首飾りがあるじゃないか!」
「これのことか?」
イオアンは自分の首飾りに触れた。
「これは〈綺麗な首飾り〉の偽物だ。一族の家宝を失ったことが家臣にばれたらまずいことになるからな、急いで知り合いの金細工師に作らせたんだ」
イオアンは胸元から、ペンダントを取り出した。
「立ち獅子の紋章は同じだが、嵌め込まれている宝石はすべてガラス玉だ。魔力もまったくない。お前が欲しければ、これと交換してもいい」
「やだよ、そんな偽物。これを手放したくない!」
散乱した家具の山で、行き場を失ったエルの前に、イオアンが立ちふさがった。
「お前はじっとしてればいい。私が外すから。首飾りはどこに隠してる?」
再会したときから、イオアンはエルを観察していたのだが、〈綺麗な首飾り〉を身に着けている様子はどこにも見当たらなかった。
「……ここさ」
とエルは自分の胸をそっと押さえた。
「服の下に布を巻いているんだ。夜、誰にも盗まれないように」
その過剰な警戒心に、イオアンは内心驚いたが、
「じゃあ上着を脱いでくれ。腕を上げるだけでいい。私が脱がすから」
と伝えた。
エルが子供のように両腕を上げ、イオアンはエルの上着を持ち上げる。エルの浅黒い肌が露になった。胸には白い布を何重にも巻いてある。その下に〈綺麗な首飾り〉を隠しているのだろう。
その若い肌にイオアンが触れると、
「あっ」
とエルが火傷したように飛び退った。
「大丈夫か?」
イオアンはエルの顔を覗き込んだ。
「首飾りさえ外せば元に戻る。私もそうだった。最初は気分が不安定になるかもしれないが、いずれ落ち着く」
「もう嫌だよ! 放してよ!」
体をくねらせて逃げようとするエルを、イオアンは無理やり両手で押さえ込んだ。
「駄目だエル! 言うことを聞け! もう少しだから!」
ようやく結び目が解け、エルの胸からイオアンは白い布を剥ぎ取った。一瞬〈綺麗な首飾り〉が見えたような気がした。
「だから嫌なんだってば!!」
すると背後で軋む音が聞こえ、二人は凍りついた。顔を向けたイオアンの隙を突いて、エルがイオアンを突き飛ばした。
「エル!」イオアンがよろめきながら叫ぶ。
足元の上着を拾い上げたエルは、
「イオアン様の馬鹿ーっ!」
と泣きながら胸を隠すと、階段の上で驚いているシアの脇をすり抜け、大きな音を立てて階段を降りていってしまった。
「エル……」
と愕然としているイオアンに、シアの姿は目に入っていない。ただ、その手には、白い布だけが残っていた。




