第56話
アルケタは言うべき言葉が見つからず、カップにワインを注ぐと、エルヴィラの前に差し出した。
彼女は黙って受け取り、飲み干した。
「それ以来、僕は父を避けた。父も関わってこようとはしなかった。
僕は長い髪を切った。港や船に近づかず、剣術の稽古に励んだ。姉が狂った理由が分かった気がした。
優しい母は〈光の王〉に帰依するばかりで、誰にも相談できなかった。たぶん本当のことを話したら、母までおかしくなってしまっていただろう。
どれほど剣の腕が上がっても恐怖は消えなかった。家を出て、遠くに離れようとしたけど、なぜかそれもできない。何か目に見えない力で、父につなぎ留められているようだった。
それで、僕は魔法に頼ることにした。
ルラル教は魔法を禁じているけど、〈光の王〉は守ってくれなかった。だったら僕も教えを信じないことにした。得体の知れない父の力に対抗するには、魔法しかないと思った。
港のそばの路地には、海の外からやってきた者たちが流れ着いている。僕は呪術師がいると聞いて、狭い階段を降り、暗い部屋に入っていった。
蝋燭に照らされた呪術師は皺くちゃの老婆で、干からびた海綿のようだった。
僕は初めて起きたことを口にした。
意外にも、すべて話すことができた。まるで自分のことではないような、誰かの話を伝えているみたいだった。
こんなことが二度と起こらないようにしてほしい――そう伝えると、ひと筋の涙が僕の頬を流れ落ちた。
小さな呪術師は立ち上がると、棚から様々な品々を丸テーブルの上に並べた。
薬草や巻物、金属の腕輪、粘土でできた人形、ねっとりと黒い液体が入った瓶――老婆はいろんな方法を説明したけど、僕は首を縦に振らなかった。どれもが父の力に対抗するには弱すぎる気がした。
この方法に、あんたが耐えられるか分からん。
そう呟いた呪術師が、魔法の竜の刺青を彫ることを提案した。
すべて彫り終えるのに三年かかる、一生消えない、後戻りのできない方法だと。
僕は、その苦しさこそ信じられる気がした。
それから毎月呪術師のもとに通うことになった。無口な刺青師のそばで、呪術師が呪文を唱え続け、ベッドの上の僕は、痛みと出血で失神することもあった。
竜の刺青が完成すると、父への恐怖が薄らいだ。父を見ても体が震えなくなり、吐き気も収まった。
憎んでいる。
だけど、もう怖くはない。
わざと背中の竜が見える服を着て、また船に乗るようになった。父と言葉を交わすこともあったけど、それ以上のことは起きなかった。
魔法の刺青に、どこまで力があるのかは分からない……。
でも確かに、僕に自信を与えてくれた。
こうして、僕は二十歳を迎えた」
すでにエルヴィラの涙は乾き、淡々と話し続けていた。
十九歳のアルケタは、エルヴィラが自分より年上だったことに驚いている。子供っぽいところがある彼女は、自分と同じぐらいだと思っていた。
「じゃあ、刺青はそのときの?」
緊張した様子でエルヴィラが頷いた。アルケタにどう思われているのかを、気にしているような表情だった。
だがアルケタのほうも、気持ちの整理が追いついていない。ただ、すっきりしないところもあった。
「その呪術師が言っただけで、竜に力があるかは、まだ分からないわけだろう……君を抱いても、何も起きないかもしれない」
「僕もそんな気はしていた……」
エルヴィラは自分でワインをカップに注いだ。
「強い気持ちさえ持てれば、それでいいと思っていた。でも、竜が現れる事件が数か月後に起きたんだ……。
その頃、父はどんな手を使ったのか、帝国と貿易をする許可を得た。ただし条件があって、ルラル教の祭司たちを乗船させることだった。何年もかかる船旅だ。父が海の藻屑にでもなればいいと願ったけど、なぜか父は同行することを命じ、それを僕は拒むことができなかった。
でも、船旅は楽しかったな。
父の片腕のアルメディオンと知り合った。大海原を跳ねるイルカも初めて見たし、恐ろしい海賊とも戦った。
各地の伝道所に寄っては、真面目な祭司たちを乗せた。彼らとは話が合わなかったけど、エルエレム師、つまりルキウスとだけは仲良くなった。神様よりも異国を旅することに興味があるみたいだ。
あるとき〈聖なる結婚〉というものを教えてくれた。
ルキウスの話では、ルラル教は様々な古い宗教の寄せ集めだけど、その中でも近親相姦を重んじる一派があったというんだ。つまり……」
ここでエルヴィラは深呼吸した。
「……父親と娘、兄と妹、そういう組み合わせによって血が濃くなり、より良いものだと考える宗派があった。それが〈聖なる結婚〉というもので、それを破ると恐ろしい天罰が下るらしい。
そこで初めて僕は、父が何をしようとしたかを知った。
前にも言ったけど、父は力に取り憑かれている。それを得るためなら何でもする人間だ。そして僕は、そんな父の血を受け継いだ娘なんだ……」
思い詰めた表情のエルヴィラがゆっくりと頭を下げた。その姿勢はまるで、神の審判を待つ罪人のようにアルケタには思えた。




