第55話
アルケタがエルヴィラに近づいていった。
自分自身を抱きかかえるように腕を組んだエルヴィラが背を向けている。その肩は震えていたが、背中の竜に魅入られたアルケタは気づかない。
まるで生きているようだ――。
大きな翼が背中一面に広がっている。長い首をアルケタに向け、威嚇するように邪悪な視線を投げかけており、口から噴き出す火焔が盛大な渦を巻いていた。
不思議なのは竜の格好だった。
鉤爪のある前脚は背中から回り込み、エルヴィラの左右の乳房を掴んでいる。彼女の尻から伸びた長い尻尾は、太腿に何重にも絡みついている。
まるで竜がエルヴィラにしがみついている――もしくは、彼女を守ろうとしているような印象を受けた。
エルヴィラの背後に立ったアルケタは、彼女のうなじにそっと触れた。ゆっくりと指先を背骨に沿って腰まで下ろすと、エルヴィラは背中を弓なりに反らし、熱い吐息を漏らした。
アルケタはエルヴィラを抱きかかえると、その唇を強く吸った。
「駄目だ、お前はこんなことをしちゃいけない……」
エルヴィラが喘ぎながら身をよじろうとする。
「……ごめん、僕が悪かった」
アルケタが囁いた。
「お前は悪くない。悪い竜は俺が退治してみせる」
だが、エルヴィラはアルケタの腕の中でもがき続け、きつく抱き締めようとしたアルケタから逃げ出した。
「やめろ! お前が死んでしまう!!」
振り返ったエルヴィラが絶叫した。
「この竜は生きている! 本当に強い! お前を殺したくない!」
「何を言ってる。そんなものは、ただの刺青……」
「違う!」
とエルヴィラが叫んだ。
「これは古い力によって生み出された魔法の竜。僕を傷つける者がいれば、僕に代わって相手を殺そうとする!」
「分かってる、分かってる……」
アルケタが子供に言い聞かせるように囁いた。
「そんなに怖がらなくてもいい。優しくするから」
「ぜんぜん分かってない!」
とエルヴィラは激しく首を横に振った。
「僕は月夜の人狼のようなもの……気を緩めれば竜に乗っ取られてしまう。僕はお前が好きだ。だから体を許し、心を許してしまえば、いずれ自分をコントロールできなくなる。そうなったら竜がお前のことを……」
エルヴィラは顔を覆い、その場で泣き崩れた。
尋常ではない彼女の様子に、しだいにアルケタの興奮が冷めていった。だが、拒絶された苦々しさも感じていた。
「じゃあ、俺にいったいどうしろと言うんだ?」
「分からない、僕にも分からないよ……」
と言ってエルヴィラが嗚咽した。
エルヴィラを見下ろしたアルケタが溜息をついた。膝をつくと、しゃくり上げる彼女の顔を覗き込んだ。
「これじゃ風邪をひくぞ、向こうで暖まろう」
エルヴィラが小さく頷くと、アルケタは彼女を立ち上がらせ、その肩を抱いて焚火まで連れていった。
※ ※ ※
アルケタが敷いた赤いマントの上に、エルヴィラが膝を抱えて座っている。
彼女の様子が落ち着くと、
「それで、どうしてそんな刺青を?」
とアルケタは、あえてエルヴィラを見ないように尋ねた。
「これが……」
口を開いたエルヴィラの目には涙が浮かんだ。
「僕を守ってくれると思ったんだ」
「何から?」
エルヴィラは、焚火を見ているアルケタへ顔を向けた。
「最後まで聞いてくれるか?」
「もちろん」
「とても長い話になってしまうぞ」
「雨はやまないし、ここに薪はいくらでもある。気にしないでいい」
「あの夏、僕は……」
エルヴィラは大きく息を吐いた。
「十四歳だった。いまのドルシアと同じ歳だ。
母はおかしくなった姉につきっきりで、たいてい僕は父と一緒だった。退屈な修道院より、陽気な船員たちがいる港のほうが好きだった。
誕生日に、父が金の指輪を贈ってくれた。父の指輪とお揃いで、宝石もついていない質素なものだったけど、
『古代文字が刻まれた特別な指輪なのだ』
と教えてくれた。
でも、もっと特別なプレゼントがあるという。父の漕ぐボートに乗り、岩場を迂回して、きれいな砂浜に辿り着いた。
砂浜は白い貝殻が降り積もったようで、青空を映した海は岩場に囲まれて穏やかだった。
岩場には小さな洞窟があって、キラキラと光る潮溜まりには、宝石のような海の生き物たちが潜んでいた。探検したくて僕は洞窟の奥へ進んだ。その頃の僕にとって世界は驚きの連続だった。すべてを体験したいと願っていた。
洞窟の奥は光が届かなかった。
打ち寄せる波と風の音がごうごうと反響していた。
突然、太い腕に抱きすくめられた。
息ができなくなり、気を失いかけた。背後から回された毛むくじゃらの腕を振りほどくと、僕は砂浜に向かった。
でも、逃げ場は海しかない。
そのまま海に飛び込んだ。白いドレスが足にまとわりつき、パニックになって溺れかけた。海から引きずり出され、砂浜に仰向けに寝かされた。
何もできなかった。
ただ、青空を見上げていた。
僕は泣き叫ぶこともせず、目を見開いていた。
太陽が眩しかった。いっそ失明すればいいと願った。もう何も見たくない……。
終わったあとも動けなかった。
やがて日が沈み始め、潮が満ちると、太腿を生ぬるい海水が浸していき、汚れた血を洗い流していった。
僕の薬指から、金の指輪が抜き取られた。
足に力が入らず、立ち上がれなかった。担ぎ込まれるようにボートに乗せられた。糸が切れた人形のように……」
話し終えたエルヴィラは、膝のあいだに顔を埋めて泣き出した。




