第40話
イオアンが〈フリュネの誘惑〉の外に出たのを見計らって、シアは五階まで上がると、音を立てずに屋根裏部屋に侵入した。
イオアンのベッドは部屋の中央にあり、机の上にひとつしかないランプの灯りはわずかにしか届かない。暗闇の中でシアは急いでドレスと下着を脱ぎ、そばの椅子の上に丁寧に畳んで重ねた。
シアはベッドの上で横になると、亜麻布のブランケットで体を覆った。
若い男の体臭がした。
シアの心臓は激しく鼓動している。
入口から外を覗いたとき、イオアンは〈フリュネの誘惑〉の前でニナたちと立ち話をしていた。いずれ戻ってくるだろう。
今日は、ヴィヨルンドと旧市街まで出かけ、帰りはニナを追いかけて、地下水路の集会まで参加した。久しぶりの外出だったので体は疲れ切っており、イオアンを待っているあいだに寝てしまうのではないかと怖れていたが、まったくそんな心配は不要だった。
完全に目は冴えている。眠れるはずがない。
ブランケットの下で、シアは手を胸の上で組み、両足はぴたりと閉じている。古代の墓では、王族のために生贄が捧げられていたという。シアはその生贄になったような気分だった。
私はいずれ〈貴婦人〉になる。
いちばん大切なものをイオアン様に捧げるには、今夜しかない――。
体が火照り始め、どうしていいか分からなくなったシアは真言を唱えた。父なるダゴンと母なるヒュドラ、父なるダゴンと母なるヒュドラ――と繰り返しているうちに呼吸が楽になり、ようやく気分が落ち着いてきた。
階段が軋む音が聞こえてきた。
足音が近づいてくる。
シアの胸がまた爆発しそうになる一方で、緊張のあまり手足は硬直した。怖ろしくなったシアは目をぎゅっと閉じた。
息をのむ声に続き、
「な、何者だ」
というイオアンの上ずった声が聞こえた。
シアも答えられないでいると、イオアンが後ずさるような音が聞こえた。がばとベッドから上体を起こしたシアは、必死にイオアンの手首を掴んだ。
「待って下さい!」
「うわっ、やめろ! 手を放せ!」
「私です、シアです!!」
「シア……?」
イオアンは、自分の手を掴んだベッドにいる全裸の娘を見下ろした。
「……お、お前はここで何をしている」
「イオアン様をお待ちしておりました」
「何を言ってるのか、よく分からないが……」
イオアンは、シアの手を振り払った。
「お前の部屋は下だろう。頼むから服を着て、私の部屋から出ていってくれ」
「……嫌です」
「嫌とかそういう問題じゃない。そこは私のベッドだ。お前でも分かるな?」
「もちろん承知しています……」
と深呼吸したシアは宣言した。
「私、イオアン様の実験台になりたいんです!」
「実験台!?」
「ヴィヨルンド様から聞きました。イオアン様は〈貴婦人〉たちを使って、様々な性の実験をしていると……私も体験してみたいんです!」
「何を聞かされたか知らないが、絶対に駄目だ」
「イオアン様の好きなようにして頂いて構いません。お願いします!」
「だから、無理なんだよ!」
とイオアンは叫ぶと、ベッドに腰かけた。
「なぜですか、私はまだ純潔です」
「だからだ!」
イオアンが柔らかい胸をつつくと、シアはさっと亜麻布で隠した。
「お前は男を知らないだろう……負荷に耐えられまい。ヴィヨルンドたちは経験も豊富だから、こちらも安心して実験できる。だが、お前のような生娘の場合、あまりにも強い快感のせいで神経が傷つくかもしれないんだ」
「私なら平気です。医術の心得もありますから」
「何を言ってる」
「帝都では治療師でした」
「お前は貴族の娘じゃなかったのか」
「その通りです。寺院によっては格を上げるために、貴族の子女を迎え入れます。たいていは籍を入れる形だけのものですが、私は真剣に学んで、実際に病人の方たちを診ていました」
「だとしても関係ない」
イオアンのつれない返事に、シアは大きく息を吐いて決心した。もう実験台とか回りくどいことはやめよう。私の本心を正直にぶつけなくては――。
胸を隠していた亜麻布を手放し、シアはイオアンの体にすり寄った。
「……イオアン様をどうしても欲しいんです」
イオアンはシアを見ると、冷たく言い放った。
「そういうのはやめろ」
「禁欲中だからですか?」
とシアも傷ついたように冷たく質問した。
イオアンは、シアから顔を背けて黙っている。
「それよりイオアン様は不能なんじゃないですか?」
シアはしまったと思ったが、一度言葉にしてしまったものは取り戻せない。
「……すみません、口にすべきではありませんでした」
「なぜそう思う。それも医術の心得か」
「いえ、何となくです」
「そうか」
「……もしかして本当にそうなんですか? それならよく効くお薬も」
「そういうのは、とっくにすべて試したよ」
とイオアンが首を横に振った。
「無駄なんだ。関心がないわけじゃない。だが、体が反応しないんだ。もちろん治療師にもかかったが効果がなかった。何かが止めているらしい。その何かは強力すぎて、壊せないとも言われた」
「心理的なものでしょうか? それとも黒魔術とか?」
「さあな、有名な祈祷師もお手上げだった。おそらく私は呪われているんだ。だから近づくんじゃない」
「そんなこと言わないで下さい……」
シアはイオアンの掌を両手で包み込むと、急に泣き出した。
「……私はイオアン様を諦めません」
「おいおい、泣かなくてもいいだろう」
イオアンが困ったように、シアの顔を覗き込んだ。
「さっぱり分からない。どうしてそこまでして私に近づこうとするのか」
「私のいちばん大切なものを捧げるのは、イオアン様しかいないからです」
「つまり、お前の純潔ということか?」
「いいえ」
涙を拭ったシアがきっぱりと言った。
「そんなものより、もっと大切なものです」
「では、お前の心……?」
「それも違います」
シアはベッドの上で姿勢を正すと、胸に手を当てた。
これ以上進んだら引き返せなくなる。
私が言葉にすることでアミアン家の運命が変わってしまう――だが、断崖絶壁から飛び降りるような気持ちで、シアは静かに話し始めた。
「イオアン様は、ゲルギリウスの原本を買ったとき、それぞれの書店主とは、いろいろ話したんですよね?」
「急にどうした」
とイオアンは困惑した表情を浮かべた。
「もちろん話したさ。どうやって手にいれたのかとかな。本来ならイグマスで見つかるような本じゃない」
「誰が売ったかはご存知ですか?」
「かなり高齢の老人だと言っていた。どの書店でも同じだ。名前は分からない。ちょっと偏屈だったが、言い値で代金を受け取ったそうだ」
「それは私の祖父です」
「ええっ!」
「祖父が勝手に売ったんです」
「……どういうことだ」
とイオアンは意識をはっきりさせようと、頭を横に振った。
「あの原本は、私の知識では帝国図書館にしかないものだぞ。それをどうやってイグマスまで……」
「知りたければ、私の祖父と会って下さい」
「ちょっと待て。いつにも増して今夜のお前はおかしいぞ。ゲルギリウスの原本の行方を知りたいのはやまやまだが、いきなり会うのは変だろう。お前は事情を知っているんだろう? ここで話してくれ」
「いいえ、それでは駄目なんです」
とシアは首を横に振った。
「これはとても大切なことなので、直接祖父の口から聞いて頂かないと。住んでいるところは、ここから歩いていける距離です。すぐですよ」
「すぐとか、そういう問題じゃないんだ、シア」
イオアンがシアの肩を掴んで言い聞かせた。
「契約上、私はお前の雇い主だ。そんな私が、お前の祖父の家をいきなり訪ねるなんておかしいだろう?」
「質素ですが、食事もご用意します」
「話を聞け。それにお前は〈侍女〉じゃないか。ルマンディアが怒るぞ」
「イオアン様のお許しさえ頂ければ大丈夫だと思います。ルマンディア様とは今日、心が通じ合った気がしますので」
「だいたい、こんな議論をするより早く寝たいんだ!」
とイオアンは額を手で押さえた。
「明日はヤヌス神殿の市場に行って、ニナが知っている骨董商と会わなきゃいけない。まあ、それさえ済めば差し迫った用事は……いいだろう。夜なら時間は空いている。どこに行けばいい?」
「ありがとうございます」
とシアは喜んだ。
「イオアン様は、魔物博物館はご存知ですか?」
「もちろん知ってはいるが、もうあそこは閉鎖されたはずだろう」
「ええ。その前で待ち合わせにしましょう!」
「べつに構わないが……」
「嬉しい!」
と叫んだシアの目から、また涙が零れ落ちた。
「まったく、今度はどうしたんだ」
「すみません。何だか気持ちが昂ってしまって」
と涙を拭いたシアは笑顔になった。
「では、明日の夜ですね。これでイオアン様に本当のことを話せます……」




