第36話
「あの声はなんだ、亡霊じゃないのか!」
とイオアンが叫んだ。
ドワーフの若者は肩を竦め、櫓を漕ぎ続けた。小舟が軋む音以外に何か聞こえてこないか、イオアンは耳を澄ました。
やはり聞こえる!
怨念のように、同じフレーズが繰り返されている。
亡霊の合唱のように虚ろな叫びが、地下水路のどこかから届いてくるのだ。
イオアンは、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような心地になり、恐ろしさのあまり鳥肌が立った。
「ここに魔物とかいないだろうな?」
「いますよ」
「いるのか!」
「やだな、地下水路全体の話ですよ。主水路はちゃんと俺たちが『掃除』してるから安全です」
「そうか、ならばいいが……」
とイオアンは舟のへりにしがみつき、あたりを注意深く見回した。
ここの水路は天井も高く、馬車が通れそうなほどの幅がある。灯りは船首のカンテラだけで、エルフのイオアンは暗視が効くとはいえ、遠くまでは見通せない。水路は流れを感じないほどの緩やかさで、黴臭い風を頬に感じていなければ、前に進んでいるのか疑ってしまうほどだった。
これなら、体の大きなダマリも楽に運べそうだ。
とイオアンは独りごちた。
だが、日頃のんきに暮らしているイグマスの地下に、魔物が潜んでいるとは――。
「その『地下水路の王』とやらがいる場所も安全なのか?」
「マルクス様のところですか? 今日なら仲間が三十人ぐらいいますし、まったく問題ありません。ちょうど宮殿前広場の真下あたりです」
イオアンは心を落ち着けるように深呼吸をした。
「地下水路の王」というのは、いかにも胡散臭い二つ名だが、もし裏社会の人間ならば、脱獄に協力してくれる可能性もある。
しかし、ここまで辿り着くのに時間を食ってしまった。カルハースたちとの会合までに戻れるといいが――また胃が痛くなってきた。昨夜は約束をすっぽかしたのだ。今夜は良い報せを持って帰らないことには合わせる顔がない。
そして、明後日には最終日のパレードだ。
イオアンは運命を見極めるように、暗い水路の先に目を凝らした。
※ ※ ※
数時間前、公妃の政務室でイオアンは卒倒しかけていた。
祭司のエルエレムから、アルケタたちの待伏せが失敗し、代わりに、貿易商のアグイレロの屋敷が〈暁の盗賊団〉に押し入られたと聞いたからである。
そのときまで楽観視していたダマリ救出の雲行きが、にわかに怪しいものになってきた。どうやって待伏せを回避したのかは分からないが、いま盗賊たちが警戒を強めているのは間違いない。
これでは彼らと接触するのも、協力を要請するのも厳しくなってきたぞ――。
憔悴した様子で北宮を退出したイオアンは、旧市街を歩きながら、何か良い策はないか頭を捻った。
頭の片隅に引っかかっていたのは、ダマリが捕らわれている地下牢の光景だった。あの構造物は浄化槽なのだ。昔の地下水路を辿れば、外から誰にも見つからず、侵入することができるのではないか?
イグマスの地下水路が旧市街から新市街まで、広大な面積に広がっていることは、イオアンもぼんやりと知っていた。だが、やみくもに潜っても迷うだけだ。詳しい人物の知恵を借りたいが、水路を管理しているであろう総督府の役人たちに接触することは避けたかった。
役人たちは、内務長官のギイス伯爵の管理下にある。脱獄計画が悟られるようなことがあってはならない。すでにアルケタや獄吏長には、自分の行動が知られているのだ。これ以上はまずい。
とはいえイオアンには、カルハースたちのような裏社会との接点がない。頼みのニナも夜にならないと会えない。
自分の力で協力者を見つけよう――。
イオアンが知っている地上と地下水路の唯一の接点は、ファッシノ河からの取水口だった。そこから地下水路が分岐している。北大門から出たイオアンは、そのあたりの漁師たちに聞いて回った。
そこで初めて聞いたのが「地下水路の王」と呼ばれる人物で、水路の隅から隅まで熟知しているという。
そして銀貨をちらつかせた結果、地下水路の王と面識があるというドワーフの少年を見つけた。これから小舟で資材を届けるところらしい。積み荷に余裕があるから乗せてもいい、金はいらないと言う。
ただ、ドワーフの少年は、
「わざわざ暗い地下水路に行きたがる理由は何です?」
と不思議がった。
ここで、伯爵であるセウ家の名前を出せば、有無を言わさず命令することはできるのだが、今回はそれができない。そこでイオアンは、自分は帝都から逃げてきて、しばらく安全に隠れる場所を探しているのだと嘘をついた。
少年はイオアンの浅黒い顔を見ると、
「闇エルフってのは、どこでも大変ですねえ」
と同情するように頷いた。
こうしてイオアンは「地下水路の王」に会うことになったのだ。




